周鉄虎(周鐵虎、しゅう てつこ、509年 - 557年)は、南朝梁からにかけての軍人李虎諱を避けるため、史書では「周鉄武」と書かれることがある。

経歴編集

出身地は知られず、南朝梁に北朝から江南に渡来した。膂力は人にすぐれ、馬槊の使用を得意とした。南朝梁の河東王蕭誉に仕えて府中兵参軍となった。蕭誉が広州刺史となると、鉄虎はその下で興寧県令となった。蕭誉が湘州刺史となると、鉄虎はその下で臨烝県令となった。侯景の乱が起こると、湘東王蕭繹が子の蕭方等を湘州に派遣して蕭誉に代えようとした。蕭誉は蕭方等を迎え撃って勝利したが、この戦いにおいて鉄虎の功績が最上であった。王僧弁が蕭誉を討つと、鉄虎は王僧弁に捕らえられた。王僧弁は鉄虎を煮殺そうとしたが、鉄虎が「侯景が滅びないのに、どうして壮士を殺すのか」と言い放った。王僧弁はそのことばに感心して、鉄虎を許して麾下に加えた。

侯景軍が西上してくると、鉄虎は王僧弁の下で任約宋子仙を撃破して、戦功を挙げた。湘東王蕭繹により仁威将軍・潼州刺史に任じられ、沌陽県子に封じられた。また王僧弁の下で建康を奪回し、謝答仁を降し、湘州の陸納(王琳の部将)を平定した。553年承聖2年)、前後の戦功により、爵位は侯に進んだ。散騎常侍となり、信義郡太守を兼ねた。555年(承聖4年)、陳霸先が王僧弁を殺害すると、鉄虎は部下を率いて陳霸先に降った。

同年(紹泰元年)11月、徐嗣徽北斉軍を率いて長江を渡ってくると、鉄虎は板橋浦でその水軍を撃破した。また歴陽を攻撃して、北斉の陣営を落とした。556年(紹泰2年)、散騎常侍・厳威将軍・太子左衛率に任じられた。まもなく周文育の下で先鋒をつとめ、南江に蕭勃を迎え撃った。また周文育の命により偏軍となり、苦竹灘で蕭勃の前軍の欧陽頠を襲撃した。

557年永定元年)、周文育の下で王琳の軍と戦ったが、沌口にて敗北し周文育や侯安都らとともに王琳に捕らえられた。王琳は捕虜となった諸将を引見したが、鉄虎は語気あらく屈服の姿勢を見せなかったため、周文育の部下のうちではひとりだけ殺害された。享年は49。侍中・護軍将軍・青冀二州刺史の位を追贈された。

子の周瑜が後を嗣いだ。

伝記資料編集