味舌藩(ましたはん)は、摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市三島)に藩庁(味舌陣屋)を置いた、江戸時代初期のである。所領の多くはむしろ大和国にあった。

概要 編集

織田信長の弟長益(有楽斎)は、信長の次男信雄が改易された後、大坂城豊臣秀吉御伽衆として仕え、摂津国島下郡に2千石を知行していたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、大和国山辺郡に新たに恩賞として2万7千石を加増された。これにより都合3万石を領し、大名に列することになった。

やがて元和元年(1615年)、大和国式上郡・山辺郡・摂津国島下郡のうちから1万石を四男長政戒重藩)に、式上郡・山辺郡のうちから1万石を五男尚長柳本藩)にそれぞれ分与し、残余の1万石は自分の養老領とした。味舌の旧領はすなわち、この時の分知以降は実際には戒重藩となっている。

長益は次男頼長をおそらく後継者と考えていたが、元和6年(1620年)に先立たれ、その遺児長好を引き取っていたものの、相続者としての届出を行わないまま、翌元和7年(1621年)に自身も死去した。長益の養老領1万石は除封となり、長好は大名への復帰も幕府への正規の召し抱えも果たさず、慶安4年(1651年)に死去し、子はなかった。

なお、長益の長男長孝は、関ヶ原での軍功により美濃国大野郡に1万石(野村藩)を父とは別に獲得したのち、慶長11年(1606年)に死去した。その子長則に嗣子がなく、寛永8年(1631年)に野村藩は廃藩となった。

ただし、長則が襲封したのは父の遺領でなく、祖父長益の遺領味舌藩であり、味舌藩廃藩の時期を長則死去時とする説もある[1]

長則の弟長政の子孫は、加賀前田家の家臣となっている。

脚注 編集

  1. ^ 角川日本地名大辞典 27 大阪府』(同辞典編纂委員会、竹内理三編、角川書店、1991年)P.1118

参考文献 編集

  • 歴史と旅 臨時増刊『新・藩史事典』(秋田書店 1993年)
  • 別冊歴史読本『御家断絶・改易大名の末路』(新人物往来社 1999年)

関連項目 編集