唐の高句麗出兵
唐の高句麗出兵(とうのこうくりしゅっぺい)は、644年から668年まで計3次にわたって行われた、唐による高句麗への侵攻である。攻められた高句麗軍は最初の十数年は善戦し、淵蓋蘇文などの活躍により太宗による唐の第一次高句麗出兵を阻んだ。663年に百済が滅亡すると、唐は新羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。内紛と離反で弱体化していた高句麗は、王都平壌が攻略されて滅亡した。
唐の高句麗侵攻(第1次、645年) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
唐・新羅 連合軍 契丹・奚 援軍(1次) |
高句麗 軍 靺鞨 援軍(1次) | ||||||
指揮官 | |||||||
唐 新羅 |
高句麗 | ||||||
戦力 | |||||||
約 11万(1次) 約 30万(2次) 約 50万(3次) |
約15万(1次) 約20万(2次) 約20万(3次) |
唐と高句麗の戦争 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 唐與高句麗的戰爭 |
簡体字: | 唐与高句丽的战争 |
英文: | Goguryeo–Tang War |
高句麗-唐戦争[1] | |
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各種表記 | |
ハングル: | 고구려-당 전쟁 |
唐の高句麗出兵は三国時代の終わりを位置づけ、朝鮮半島は統一新羅の時代となった。また、この戦いで手に入れた領土を巡る唐・新羅戦争を引き起こした。
名称編集
日本の東洋史や中国史の研究においては、この戦争のことをさまざまな名称で表現している。
第1次侵攻(644–645年)編集
642年に高句麗では、対唐強硬派の淵蓋蘇文がクーデターを起こし、融和派の栄留王を殺して甥の宝蔵王を擁立した。唐はその懲罰を名目に644年11月に高句麗への侵攻を開始し、645年2月には太宗が親征する大規模な戦争となった。唐は水路と陸路の二面作戦をとった。張亮率いる水軍は高句麗の卑沙城を落したものの、その救援に向った高句麗水軍に大敗した。営州に集結した陸路の主力軍は、李勣を総司令官とし、尉遅敬徳・長孫無忌・薛仁貴・劉弘基・張倹・李道宗・契苾何力・閻立徳らが各隊を率い、これに契丹・奚からの援軍も伴って、高句麗領内に一気に攻め入った。緒戦では高句麗の城塞である蓋牟城・白巌城・遼東城を落し、さらに安市城(現在の遼寧省鞍山市海城市)を包囲した(安市城包囲戦)。高句麗の高延寿と高恵真が靺鞨の援軍とともに安市城救援に向かうと、駐蹕山で両軍が衝突する大規模な会戦となったが、結局唐軍が勝利した。高延寿と高恵真は唐に降伏して官位を与えられている。しかし安市城を守る楊萬春は降伏を拒否し徹底抗戦を続けた。唐軍は高く強固な城壁に守られた安市城に手こずり、これを攻撃するため土山を築いたところ、これが崩壊して士卒に大きな被害を出し、結局この作戦は失敗に終わった。さらに唐軍は、新城と建安城の攻略にも失敗した。そうした中で鉄勒が唐に侵入したとの知らせを受けた太宗は、これから冬になると兵糧補給が困難になることもあり、これ以上の継戦は困難と判断、同年9月には退却を開始した。しかし退却途上に荒天や厳寒に遭遇し大きな被害を出した。
第2次侵攻(661年)編集
649年に太宗が崩じると、唐は戦略を長期消耗戦に転換し、小規模の攻撃を継続して高句麗を疲弊させた。また高句麗と敵対する新羅を冊封し、661年に百済の役で高句麗の同盟国・百済を滅ぼして、高句麗を攻撃する態勢を固めた。同年、唐の高宗と武則天は、蘇定方・契苾何力・龐孝泰・程名振らに兵を率いさせ高句麗に侵攻させた。契苾何力は鴨緑江で淵蓋蘇文の長男の淵男生を破った。唐軍は平壌城を包囲したが、淵蓋蘇文が蛇水の戦いで龐孝泰の軍を破り龐孝泰を敗死させた。残る唐軍も補給が続かない状況のため撤退した。
第3次侵攻(667–668年)編集
666年に淵蓋蘇文が死ぬと、淵男生が後を継いだが、弟の淵男建・淵男産との間に内紛が生じ、淵男生は唐に投降してしまった。この機に乗じて、唐軍は淵男生を先頭にして、李勣などが高句麗に侵攻した。淵蓋蘇文の弟の淵浄土は新羅に投降した。668年には、唐軍により首都の平壌城が落ち、ここに高句麗は滅亡した。
評価・影響編集
唐の高句麗出兵では、唐・新羅の同盟が大きな役割を果たした。新羅の武烈王は唐に赴き、その強大な国力を直接見て、新羅が唐には敵わないということを理解し、武烈王は唐太宗の援助を引き出し、その代わりに唐の属国になることを選択した。武烈王の子の文武王は、父の従属政策を受け継ぎ、ギリギリのところで、唐に破壊的な行動を取ることを思い止まらせるため、唐・新羅戦争中も唐への朝貢を続け、唐との臣従関係を維持し、唐の年号を使い続けた[11]。唐はこのような新羅の面従腹背の態度を責め、文武王を廃し、人質となっていた文武王の弟を新羅王に据えようとしたが、文武王は謝罪使を唐に派遣し、詫びている[11]。また、文武王は日本にも朝貢し、日本の後ろ盾を得て、唐に対抗しており、もともと日本領であった旧任那地域を新羅が不当に占領したことを詫び、日本が本来、徴税するはずの税を「任那の調」という形で上納した。また、日本が新羅を支援したことは、唐に対する大きな牽制となった[11]。
宇山卓栄は、「金春秋は唐の援助を取り付けます。しかし、これにより、新羅は唐の属国に成り下がります。唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、官制も唐に倣い、新羅独自の年号を廃し、唐の年号を用いて、唐に服属したのです。弱小国の新羅が百済・高句麗連合に対抗し、生き残るためとはいえ、その行動は売国的でした。超大国である唐の属国になれば、新羅の民は唐の事実上の奴隷となることは明白であり、それをわかっていて、新羅の王族はこのような選択をしたのです。百済、高句麗、新羅の三国は古来、激しく対立してきました。しかし、中国こそが最大の脅威であるという暗黙の合意がこの三国にはありました。互いに敵対しながらも、その共通認識に基づいて、三国の外交が展開されてきたのです。どこか一国でも、中国の脅威に浸食されはじめれば、朝鮮全体が中国に奪われ、隷属を強いられるということを三国は理解していました。新羅はその暗黙の合意を破り、一線を越えました。百済や高句麗も、まさか新羅が自分からプライドも何もかも捨て、唐の属国に成り下がるような真似をしてまで、唐と手を組みたがるとは思っていなかったでしょう。驚天動地、全ての前提を覆す出来事でした[12]」「新羅は唐の従属国でしたが、後の時代の、元王朝に支配された高麗や、明・清王朝に支配された李氏朝鮮のような中国の隷属国ではありませんでした。未だ、新羅は従属国の範囲内に止まっていたと言えます。新羅は唐軍を朝鮮から排除することができたからです。高麗や李氏朝鮮は中国に主権を全て奪われ、もはや国ですらなく、中国の属邦に成り下がっていきます。しかし、新羅も一歩間違えれば、隷属国になっていました。チベットや突厥などの異民族勢力が唐と戦っていたからこそ、新羅は唐を排除できたのであり、たまたま幸運が重なったというだけのことに過ぎません[13]」と評している。
北朝鮮は、外国の唐と手を結び、高句麗を滅ぼした新羅の行為を断罪している。전영률(朝鮮社会科学院)は、外国の唐と手を結び、高句麗を滅ぼした新羅を朝鮮の歴史における正統国家とする「新羅正統説」を支持することは、外国の米帝と手を結ぶ売国的南朝鮮傀儡(韓国)による「北進統一」に歴史的根拠を提供する御用行為と非難している[14]。
新羅支配層が外勢(唐)を引き込んで、高句麗と百済を滅亡させた。高句麗領土の北部は唐の支配下に置かれた。新羅は朝鮮半島の大同江以南のみ支配しただけだ。高句麗の故地には、高句麗遺民が靺鞨族と一緒に高句麗の将軍である大祚栄の指揮のもと渤海国(698〜926年)を立てた。...したがって新羅は統一国家ではなく、国土の南部に輝いた朝鮮の地域王朝に過ぎず、私たちの歴史の最初の統一国家は高麗ということが科学的に明らかになった。 — 전영률
出典編集
- ^ 韓国の「韓国民族文化大百科事典」や「斗山世界大百科事典」は麗唐戦争と記している(여당전쟁「韓国民族文化大百科事典」、여당전쟁「斗山世界大百科事典」、여·당전쟁「야후!百科事典」 Archived 2009年1月24日, at the Wayback Machine.。
- ^ 尾形勇「東アジアの世界帝国」講談社、1985年、257頁、273頁
- ^ 井上秀雄『古代朝鮮』講談社学術文庫、2004年、pp.210-218.
- ^ 礪波護『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社、1997年、440頁
- ^ 尾形勇「東アジアの世界帝国」講談社、1985年、257頁
- ^ 礪波護『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社、1997年、365–366頁、442頁
- ^ 尾形勇「東アジアの世界帝国」講談社、1985年、273頁
- ^ 『日本史年表・地図』吉川弘文館、2007年、第13版
- ^ 『世界史年表・地図』吉川弘文館、2007年、第13版
- ^ 井上秀雄『古代朝鮮』講談社学術文庫、2004年、p219
- ^ a b c 宇山卓栄 『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』扶桑社〈扶桑社新書〉、2018年11月2日、23-25頁。ISBN 4594080804。
- ^ 宇山卓栄 『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』扶桑社〈扶桑社新書〉、2018年11月2日、20頁。ISBN 4594080804。
- ^ 宇山卓栄 『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』扶桑社〈扶桑社新書〉、2018年11月2日、26頁。ISBN 4594080804。
- ^ 東北アジア歴史財団 編 『동아시아의 발해사 쟁점 비교 연구』東北アジア歴史財団〈동북아역사재단 기획연구 29〉、2009年9月、104頁 。