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四条隆親
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建仁2年(1202年
死没 弘安2年9月6日1279年10月12日
官位 正二位権大納言
主君 順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 藤原北家魚名四条家
父母 父:四条隆衡、母:坊門信清の娘
兄弟 藤原隆綱貞子隆親隆盛、隆快、隆助、良承、灑子、親子、藤子
藤原範茂の娘、坊門信家の娘
足利能子(足利義氏の娘)
房名隆顕鷲尾隆良、隆任、隆遍、近子、隆子、識子
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四条 隆親(しじょう たかちか)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿歌人大納言四条隆衡の二男。官位は正二位権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。

経歴編集

父・隆衡は平清盛の外孫にあたるが、母(坊門信清の娘)の姉妹は3代将軍・源実朝の正室でもあった。

元久2年(1205年)従五位下に叙爵。貞応元年(1222年)8月に蔵人頭元仁2年(1225年)に参議寛喜3年(1231年)権中納言、貞永元年(1232年)正二位、嘉禎1年(1235年)中納言、同4年(1238年)権大納言となる。後鳥羽上皇後堀河天皇の近臣。妻の足利能子(足利義氏の娘)は土御門天皇の第七皇子・邦仁王の乳母であったが、仁治3年(1242年)正月、四条天皇が崩御した際、鎌倉幕府の意向で邦仁王が次期天皇として擁立され、隆親の冷泉万里小路第で後嵯峨天皇として践祚、能子は典侍となった。宝治元年(1247年)に中宮大夫を兼ね、宝治2年(1248年)には皇后宮大夫を兼任した。建長2年(1250年)、大納言となる。文応元年(1260年)、大納言を辞職したが、嫡子とした隆顕とは不仲で、結局、建治2年(1276年)に、隆顕は権大納言を辞職、出家し、隆親が大納言に還任した。四条家嫡流は長男・房名の系統となり、隆顕の系統は後に南朝に与して絶家となる。

弘安2年(1279年)9月6日、78歳で薨去。料理の名人であり、『宝治百首』にも「塩釜」を歌枕に詠んだ歌を採られた歌人でもあった。

系譜編集

出典編集

先代:
四条隆衡
四条家
4代
次代:
四条房名