塩野適斎
塩野 適斎(しおの てきさい、1775年[1] - 1847年11月16日[2])は、八王子千人同心組頭[2]。組頭・河西知礼の次男として生まれる。別名、河西知哲。寛政3年(1791年)17歳のとき、組頭・塩野光廸(鶏沢)の養子となり、通称を所左衛門といい、諱は轍、適斎と号す。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 安永4年(1775年) |
死没 | 弘化4年11月16日(1847年12月23日) |
別名 | 所左衛門 |
戒名 | 日止 |
墓所 | 極楽寺(東京都八王子市) |
主君 | 徳川家 |
父母 | 父:河西知礼、養父:塩野光廸(鶏沢) |
人物
編集1791年(寛政3年)太平真鏡流開祖・若菜豊重に入門し[1]、拳法を塩原又太郎に、長尾某に鎌槍を学ぶ[1]。1798年(寛政10年)に刀法免許を得ると、多くの千人同心に剣術を教えた[1]。また1802年(享和2年)朱子学を林家の家塾へ河尻春之の紹介で入門して、学を修めている。1806年(文化3年)自宅に講武堂と読書堂を併設して武道と学問を指南する[1]。
1813年(文化10年)、八王子千人頭・原胤敦に地誌制作の幕命があると、植田孟縉らとともに武蔵国の多摩郡、高麗郡、秩父郡の地誌編纂に従事、『新編武蔵風土記稿』の一部を完成させる。さらに『新編相模国風土記稿』の編纂にも従事した。
文政7年(1824年)、前年の怪文書のため不行跡との理由から、適斎を含む同僚50人が譴責処分となり、平同心に格下げとなった。
文政10年(1827年)、『桑都日記』正続41巻を完成させ、幕府に献上した(「桑都」(そうと)とは織物の町・八王子のこと)。これは多年の調査と膨大な資料をもとに編まれた、八王子地域と八王子千人同心の天正10年(1582年)から文政7年(1824年)までの編年史である。その他、『適斎文稿』『適斎詩集』『筑井県行』『日光客中謾筆』などの著作がある。また恩人河尻春之の遺文集『製阪肥後公遺稿』を編纂している。
弘化4年(1847年)11月16日、死去[2]。葬儀には千人頭5名以下、500人を超える参列者があったという[1]。享年73。墓は極楽寺(東京都八王子市大横町7-1)にあり[1]、東京都指定文化財に指定されている[2]。
脚注
編集参考文献
編集- “塩野適斎墓”. 八王子市ホームページ (2016年12月14日). 2021年2月17日閲覧。