大井政成
大井 政成(おおい まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
生誕 | 天文17年(1548年) |
---|---|
死没 | 慶長8年9月16日(1603年10月20日) |
別名 | 民部少輔、石見守 |
戒名 | 玄頂寺天山了雲 |
墓所 | 玄頂寺(群馬県高崎市) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 武田信玄、勝頼、依田信蕃、康国、康勝 |
氏族 | 清和源氏小笠原流大井氏 |
父母 | 大井政継 |
妻 | 設楽貞通の娘 |
子 | 政吉、松井宗次室、小畑幸勝室、依田景俊室、石原善左衛門室、政重、政忠 |
生涯編集
信濃国佐久郡の有力豪族・信濃大井氏の出身。当時信濃を制圧していた武田信玄に仕え、永禄11年(1568年)の駿河侵攻では蒲原城・沼津城攻略の際に功があった。天正10年(1582年)武田氏滅亡後の天正壬午の乱において、同年11月には甲斐国新府城を押さえた徳川家康が信濃平定を目論む。徳川軍の柴田康忠・菅沼定利が佐久郡前山城を攻略、その際に徳川軍に降伏し、嫡子・政吉と従甥(伯父・政行の孫)の政俊を人質として供出する。
以後は同じ信濃衆の依田信蕃の配下に置かれる事となったが、かつては信濃守護代を務めた信濃大井氏の総領職を承認され、佐久郡耳取1,300貫文を安堵される。天正18年(1590年)家康が関東に移封されると、依田康勝に与えられた上野国藤岡の内1,300石を与えられる。
慶長5年(1600年)1月、康勝が私闘の咎によって改易され高野山に蟄居すると、それを追って自らも子・政吉と共に高野山に登った。同年7月、会津征伐では小山評定において徳川軍に合流。徳川秀忠の東山道進軍に信濃路の嚮導を任される。だがこの時に病を得たために従軍はできず、子の政吉に一任している。関ヶ原の戦いの後は、西軍所属の真田昌幸の居城だった上田城の守衛を担当する。その後は藤岡の地を安堵され、慶長8年(1603年)に同地で没した。
出典編集
- 『寛政重修諸家譜』巻第203