依田康勝

依田 康勝(よだ やすかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将依田信蕃の次男。別名の康貞と康真に関しては「貞」と「真」の読み書き間違いの可能性が考えられる。兄の跡を継いで「松平」姓を名乗っていたとも。また、のちには加藤康寛(宗月、加藤四郎兵衛)と名乗ったともされる(後述)。以下の文中ではおおよそ「康勝」として扱う。

 
依田康勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正2年(1574年
死没 元和9年(1623年)(一説に承応2年(1653年))
改名 新六郎(幼名)→康勝→加藤康寛
別名 康真[1]、康貞[2]、康寛・幸正[3]、蘆田康勝
官位 従五位下右衛門大夫
主君 徳川家康結城秀康
氏族 依田氏
父母 父:依田信蕃
兄弟 康国康勝

目次

経歴編集

はじめ兄・康国と共に甲斐武田氏の人質となる。武田氏滅亡後は徳川氏の人質となる。天正11年(1583年)に父が死去すると、家督は兄が継いだが、天正14年(1586年)には徳川氏の家臣として取り立てられ、徳川家康の前で元服し、家康から「康」の一字をもらい受け、松平姓を名乗ることも許された。天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐に、徳川勢の一員として兄と共に従軍。後北条氏上野国の拠点へ攻撃を開始する。同年4月、兄が上野石倉城攻めで戦死(一旦開城が成ったが、開城時の混乱の中で守備側の北条家人寺尾左馬助が康国を殺害。その場で康勝が寺尾を討ち取ったとも伝わる)したが、その跡を継いで相模国津久井城などを攻めた。小田原征伐ののち、家督と兄の遺領の小諸領(春日城)を継ぐ。家康が関東に移ると、武蔵国と上野に計3万石の領地を預けられ、藤岡城主となった。

慶長5年(1600年)1月23日、大坂の旅宿で囲碁をしていた際、同僚の小栗三助を喧嘩口論の末に殺害してしまう。小栗が囲碁で負けたのち、依田を罵ったことが原因とされている。反省した康勝は大坂を出奔し、高野山にて謹慎するが改易となり、藤岡3万石は没収された。しばらく浪人となった後、結城秀康の家臣となった。

秀康に仕える際、世間を憚り、母方の加藤氏の苗字から加藤康寛(加藤宗月)と改名した。越前での康勝の子孫は蘆田姓(もしくは芦田)を称したが、康勝自身は終生、依田姓で通していたという説もある。慶長6年(1601年)2月、秀康が越前国に封じられると、北ノ庄城(のちの福井城)受け取りのために、秀康譜代の家臣である本多富正と康勝が先行して越前に派遣された。秀康の下では食禄5,000石、美濃国との交通の要衝・越前大野郡木本を預けられた

同慶長6年、康勝は兄の康国の菩提を弔うために、父の信蕃、祖父の芦田信守が拠った信州春日城の麓に、一族の(信蕃の叔父)天外大雲禅師を開山として康国寺長野県望月町(現佐久市)春日。依田氏の居館跡と伝わる)を建立した。同所に康国夫妻の墓が残る。

慶長11年の秀康の死に際し、幕府は複数の福井藩の重臣を指名し、殉死を行うことを固く禁じた。この中に康勝も含まれる。

大坂の陣の際は「大野郡が一揆が多発する地域」という理由で大野城代として留守の防備に当った。1623年に死去したと言われるが、没年には異説もある。

幕府の命により『芦田記』(依田記)という家伝を残し、祖父・芦田信守、父・信蕃、兄・康国、当人である康真までの事が綴られ、依田氏関連の重要な史料のひとつとなっているが、これが成立したのは寛永20年(1643年)のこととされている。

子孫は福井藩の重臣・芦田信濃家として、家老を輩出する高知席の17家の一席を担った。

家臣編集

脚注編集

  1. ^ 「戦国人名辞典」、「国史大辞典」
  2. ^ 「藤岡市史」
  3. ^ 「多野郡誌」

参考文献編集

外部リンク編集