大宮家(おおみやけ)は、朝廷に仕えた地下官人家。小槻広房を祖とし、小槻氏嫡流として壬生家官務を継承した他、算博士を世襲した。戦国時代に断絶。

大宮家
(小槻姓)
家紋
本姓 小槻氏嫡流
家祖 大宮広房
種別 地下家
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
支流、分家 虫鹿家地下家
凡例 / Category:日本の氏族

家名は土御門大宮にあった邸宅に因む。

概要

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小槻氏は中世よりの職を務めて太政官の諸記録を司り、五位官務左大史上首)を世襲したため「官務家」と呼ばれた他、大学寮において算博士を世襲した。小槻政重の子師経永業隆職らは3名とも官務を務め、永業流は算博士を、隆職流は官務を相続することとされた。しかし平安時代末に隆職が源頼朝の不興を買って永業の子・広房が官務に任じられた。その後隆職が復帰すると、官務の地位は広房流(のちの大宮家)と隆職流(のちの壬生家)の子孫のうち、小槻氏の氏長者にある方が就くことになった。通説ではこの広房・隆職の時期から両家の分立があったとされているが、鎌倉時代には隆職流を嫡流とするものの、隆職流に地位・経験的に官務に適任な人物がいない時に限って広房流の官務が任じられたと推定されている。秀氏は官務として初めて四位に昇った。秀氏の時代に左大史が2名置かれることが始まり、隆職流の状況に関わらず広房流の官務が任ぜられる状況が生まれた。また、貞応文永年間に隆職・広房両流間に相論が発生し、文永10年(1281年)に両家を対等関係と認めた広房流の秀氏・隆職流の有家連署の起請文が作成されており、この年をもって両家分立とみなす考えもある[1]

その後も両家の争いは絶えず、弘安9年(1286年)には起請文に背いて所領争いをしたとして広房流の秀氏と隆職流の顕衡(有家の子)が揃って左大史を解任される事件が発生している。南北朝時代頃から、広房流は大宮家、隆職流は壬生家を称し始めたと考えられている。室町時代後期に至ると、大宮長興時元親子と壬生晨照晴富親子は朝廷室町幕府を巻き込んで激しく対立した。

大宮長興は小槻氏で初めて八省卿として、治部卿に任じられるなど家名再興に尽くしたが、応仁の乱によって官務の権威の源泉とも言える官文庫とその古文書を喪失し、一応は文書を守り通して後に自己の官文庫を再建した壬生晴富と明暗を分ける。長興の没後、先例の蓄積である官文庫の古文書を失った大宮家は官務としての仕事が困難となり、更に壬生家との紛争の長期化にも悩まされた結果、当主・大宮伊治周防大内氏を頼って下向する。伊治の娘は大内義隆の寵愛を受けて後継者である義尊を儲けるが、天文20年(1551年)大内義隆に対する謀反の兵を挙げた陶隆房により、伊治も義隆・義尊ともども討死した(大寧寺の変)。伊治の子は早世したようで新たに迎えた猶子も出仕しなかったらしく、元亀3年(1573年壬生朝芳に大宮家継承を命じる女房奉書が下されて大宮家は正式に断絶[2]。以後は明治維新まで、壬生家が単独で官務と算博士を継承した。

庶流として、虫鹿家があり同様に地下家として史の職を務めたが、江戸時代に当主虫鹿亮昭壬生孝亮猶子となり、壬生家の指導下に入った。

系譜

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実線は実子、点線は養子。
 
小槻政重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師経永業壬生家
隆職
 
 
 
大宮家
広房
 
 
 
公尚
 
 
 
季継
 
 
 
秀氏
 
 
 
益材
 
 
 
伊綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
冬直清澄
 
 
 
 
 
康景光夏
 
 
 
 
 
通古為緒
 
 
 
 
 
頼胤長興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通音[3]寔包時元
 
 
 
 
 
[虫鹿家]
虫鹿通昭
伊治

系譜参考

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 遠藤、2011年、P84-93。
  2. ^ 飯倉晴武「大永七年壬生・大宮両家和睦状の成立と大宮家の没落」(所収:小川信 編『中世古文書の世界』(吉川弘文館、1991年) ISBN 978-4-642-02635-2
  3. ^ 通勝(大宮光夏の孫)の子

参考文献

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  • 遠藤珠紀「官務家・局務家の分立と官司請負制 : 中世前期における朝廷運営の変質」『史学雑誌』第111巻第3号、史学会、2002年、293-322,441-44、doi:10.24471/shigaku.111.3_293ISSN 0018-2478NAID 110002365579 

関連文献

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一族は史官を務めたこともあり、下に示すような日記が残っている。