大徳寺通
概要
編集地元からは旧大宮通(きゅうおおみやどおり)、紫竹街道(しちくかいどう)の名で親しまれている。北は西賀茂蟹ヶ坂町南側を、南は建勲通をそれぞれ起終点とする。
大宮地域以南では、一筋東を大宮通(新大宮通)が並行して通っている。これは、昭和初期以降に実施された土地区画整理事業によって、延伸されたものである。
かつての大宮通は紫野地域で突き当たっており、その周辺は大宮頭(おおみやがしら、ややみやかしら)と呼ばれていた[1][2]この先は、やや北西に曲がって北へ延びる小路があり、雲林院や大徳寺門前を経て洛外へ抜けていたという。この小路が、現在の大徳寺通とほぼ重なっており、旧大宮通(かつての大宮通)と称される由縁となっている[3][4]。
賀茂の社(上賀茂神社)、果ては江文峠を経由して大原、鯖街道に通じる主要道として、往来で賑わっていたという[5]。1637年の『寛永十四年洛中絵図』には、今宮通と交差する十字路から北へ延びる道が描かれ、その両隣には「町屋」と記されている。
玄以通との交差点を約50m北に進んだ紫竹下竹殿町内には三叉路があり、1842年(天保13年)に設置された標石が残されている。ここには「左、にしがも神光院岩屋道 右、上賀茂貴布祢くらま道」と刻まれており、左へ進めば神光院を経て雲ケ畑へ、右へ進めば上賀茂を経て貴船・鞍馬へ通じる旨が記されている。この三叉路は、『寛永十四年洛中絵図』にも描かれており、洛外へ通じる道として利用されていた。
今日のような住宅街を貫く生活道路として整備されたのは、上述の土地区画整理事業の進展による。1929年(昭和4年)の測量図を見ると、区画整理が完了し、整然と住宅地が並んでいる様子が見て取れる[6]。
閑静な住宅地を縦断しており、全線を通じて交通量は比較的少ない。待鳳小学校周辺では、平日の登校時において、自動車通行が制限される。今宮通以南で、伝統的な佇まいの古民家や京町家が各所に残されている一方、御薗橋通以北では宅地化が進展するも、今なお田園風景が随所にみられる。
名前の由来
編集通り自体は、大徳寺の建立とほぼ同時期にできたようである。大徳寺参詣道の意味合いは薄く、むしろ大徳寺の側に沿って通っていたことから名付けられたようだ[7]。
沿線の主な施設
編集交差する道路など
編集脚注
編集- ^ 上京区仲之町に、上京警察署大宮頭交番がある。
- ^ 成逸住民福祉協議会 成逸学区のうつりかわり 大宮通の北の突き当たりに、今宮神社御旅所の鳥居が南向きにあった
- ^ 一路一会 大宮通の古い町並み
- ^ 通り沿いに建つ久我神社およびその周辺一帯が大宮と称されたことから、門前の通りにあたる当通りを大宮通と呼んだともされる
- ^ 京都市情報館 上京区役所 成逸学区
- ^ 京都市情報館 北区役所 鳳徳学区
- ^ 一路一会 京の路と町家 大徳寺通
参考文献
編集- 『探訪 京都・上賀茂と二つの鞍馬街道-その今昔』(西村勁一郎(個人)、2008年)