大森信和

日本のギタリスト。元甲斐バンドのメンバー

大森 信和(おおもり のぶかず、1951年9月3日 - 2004年7月5日)は日本のギタリスト音楽プロデューサー、音楽専門学校講師。熊本県人吉市出身。

大森 信和
出生名 大森 信和
生誕 1951年9月3日
出身地 日本の旗 日本熊本県人吉市
死没 (2004-07-05) 2004年7月5日(52歳没)
職業 ギタリスト
音楽プロデューサー
音楽専門学校講師
担当楽器 ギター
活動期間 1974年 - 2004年ギタリスト
1986年 - 2004年(音楽プロデューサー
共同作業者 甲斐よしひろ田中一郎松藤英男長岡和弘
公式サイト Peace & Freedom 大森信和 site

来歴 編集

  • 1951年9月3日熊本県人吉市に生まれる。中学高校時代、ビートルズのシングル・レコードは、すべて発売日に購入。
  • 1970年福岡大学薬学部進学のため、福岡に転居。照和などで音楽活動開始。
  • 1973年9月、甲斐よしひろ長岡和弘と共に甲斐よしひろバンドを発足させる。翌1974年5月には松藤英男を迎え、甲斐バンドが結成される。
  • 1978年12月発売の「HERO」は大ヒットとなるが、その翌年、長岡和弘が体調不良のため甲斐バンドを脱退し、暫く三人の活動となる。
  • 1986年、長年のステージ活動の果ての難聴を理由に、甲斐バンド脱退を表明。田中一郎は泣いて大森を引き止めようとしたとも言われるが、甲斐よしひろは甲斐バンド自体の解散を決定する。甲斐バンド活動終了後はレコード会社・ファンハウスのディレクター(鈴木雄大等を担当)を皮切りに、音楽プロデューサーとして活動。この時期、BEGINなどを手掛ける。
  • 1994年、所属をメーカーからプロダクションに移し、フリーランスに近い活動となる。この時期、THE BOOMSAYOKO小野リサ等、海外(特にジャマイカやブラジルなど)の、いわゆるロックとはひと味違うシーンでの活動が続く。年末、体調を崩すが奇跡的に回復。
  • 1995年、田中一郎のKIT16結成に参加。
  • 1996年、解散から10年目の甲斐バンド期間限定復活に参加。この時期以降、万全とは言えない体調の中、音楽活動とともに新人の育成を中心に活動。また、音楽の専門学校の講師としてロックのアンサンブルの授業を担当。
  • 1999年 - 2001年、甲斐バンド再結成に参加。
  • 2002年、初のソロアルバム『Peace & Freedom』を発表。
  • 2004年7月5日に心臓疾患で52歳で急逝。数々の作品を残した。

PROFILE 編集

<シングル・バス通りより>

エピソード 編集

甲斐バンド中最年長であり、意思決定のそれなりに大きい要素だった。甲斐よしひろはいつも「大森さん」とさん付けで呼んでいた。甲斐バンド時代、甲斐よしひろら他のメンバーが外出先で第三者と喧嘩をすると、よく仲裁に入っていた[1]。愛用のギター、ギブソン・レスポールから奏でられる独特のチョーキングは「泣きのギター」として、甲斐バンド独自のサウンドの中核を担っていた。甲斐バンド時代、唯一リード・ヴォーカルをとった作品が「アップル・パイ」であり、アルバム「らいむらいと」に収録されている[2]

ディスコグラフィー 編集

リリース日 タイトル
1st 2002年6月26日 peace & freedom
2nd 2005年7月5日 NOBU 335
3rd 2006年7月5日 SKY WAS BLUE

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ 1996年8月26日放送『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP
  2. ^ らいむらいとライナーノーツより

関連項目 編集

外部リンク 編集