妊孕性温存療法妊よう性温存療法(にんようせい おんぞん りょうほう)とは、がんなどの疾病の治療のために行う放射線療法化学療法ホルモン療法による副作用で生殖能力が失われてしまわないようにあらかじめ保護したり、または生殖能力を失うことが避けられない場合には将来人工授精などによって子孫を残せるように治療の開始前に生殖細胞(精子卵子)を採取・保存したり、または人工授精によって受精させた受精卵[1]を保存しておくことである。

概要編集

放射線療法や化学療法によってがんを治療する際、部位によっては、治療によって健常な器官の機能が損なわれることがある。たとえば脳腫瘍を放射線療法で治療する場合、腫瘍の位置によっては放射線療法によってどちらか一方の眼の視機能が失われることがある。

同様にがんの発生部位や、化学療法で用いる薬剤の種類によっては、精巣卵巣といった生殖器官や、小児の生殖能の発達に関連の深い脳下垂体に障害が出ることがある[2]。がん治療後に結婚したり子供をもうけたりすることに支障のないようにするため、若年のがん患者に対して、治療前や治療中に対策がとられるようになった[3]

妊孕性を喪失する危険性のある治療編集

男子編集

抗がん剤療法編集

男子において妊孕性を喪失する危険性のある治療(抗がん剤療法)[4]
American Society of Clinical Oncology Children's Oncology Group Lancet Oncology
シクロホスファミド
  • 7.5g/m²以上のシクロホスファミド投与*
  • 7.5g/m²以上のシクロホスファミド投与*
  • 前処置としてのシクロホスファミド投与*
  • 5g/m²以上のシクロホスファミド投与*
イホスファミド (記載なし)
  • 60g/m²以上のイホスファミド*
  • 25g/m²以上のイホスファミド
アルキル化剤
  • 3000mg/m²以上のプロカルバジン
  • シクロホスファミド換算で5g/m²を超えるアルキル化剤の投与、特に10g/m²を超える場合*
プラチナ製剤
  • シスプラチン、カルボプラチンの投与(投与量の記載なし)
  • 475mg/m²以上のシスプラチン

*印:妊孕性を喪失する危険性の高い治療

放射線療法編集

男子において妊孕性を喪失する危険性のある治療(放射線療法)[4]
American Society of Clinical Oncology Children's Oncology Group Lancet Oncology
下垂体、骨盤、性腺への放射線照射
  • 40Gyを超える頭蓋照射*
  • 精巣への6Gy(小児)、2.5Gy(成人)を超える照射*
  • 精巣への1~6Gyの放射線の散乱
  • 全身放射線照射*
  • 骨盤・精巣・全身への放射線照射とアルキル化剤の併用*
  • 30Gy以上の頭蓋照射

*印:妊孕性を喪失する危険性の高い治療

その他編集

  • 精巣(睾丸)の摘出、前立腺の摘出、陰茎の切断など

女子編集

抗がん剤療法編集

女子において妊孕性を喪失する危険性のある治療(抗がん剤療法)[4]
American Society of Clinical Oncology Children's Oncology Group Lancet Oncology
シクロホスファミド
  • 7.5g/m²以上のシクロホスファミド投与(20歳未満)*
  • 骨盤・全身照射とアルキル化剤の併用*
  • アルキル化剤の使用(投与量の記載なし)
  • 11.3g/m²以上のシクロホスファミド投与
アルキル化剤
  • 骨盤・全身照射とアルキル化剤の併用*
  • テモゾロミドやBCNUと頭蓋照射の併用*
  • プロカルバジンの使用(MOPP療法3サイクル、BEACOPP療法6サイクルを超える)*
プラチナ製剤
  • シスプラチン(投与量の記載なし)
  • シスプラチン、カルボプラチンの使用(投与量の記載なし)
(有意な妊孕性の低下なし)

*印:妊孕性を喪失する危険性の高い治療

放射線療法編集

女子において妊孕性を喪失する危険性のある治療(放射線療法)[4]
下垂体、骨盤、性腺への放射線照射
  • 40Gyを超える頭蓋照射*
  • 思春期前15Gy、思春期後10Gy、成人6Gyを超える全腹、骨盤照射*
  • 思春期前10~15Gy、思春期後5~10Gyの全腹、骨盤照射
  • 全身放射線照射*
  • 30Gy以上の頭蓋照射

*印:妊孕性を喪失する危険性の高い治療

その他編集

  • 卵巣の摘出、子宮の摘出など

温存療法の種類編集

妊孕性温存療法は、おおきく3つに分けられる。

  • 放射線からの遮蔽
    放射線から精巣や卵巣を遮蔽することによって、生殖能力が失われないように保護する。
  • 精子・卵子の凍結保存
    生殖細胞である精子や卵子を採取、保存することによって、生殖能力が失われた後にも体外受精による挙子を可能とする。
  • 精巣組織・卵巣組織の凍結保存
    生殖細胞を採取できない場合、精巣や卵巣の組織を採取して凍結保存し、組織を培養して成熟させたり患者の体内に移植したりして挙子の可能性を残す。

放射線からの遮蔽編集

  • 放射線を通さない素材で精巣や卵巣を保護する
  • 放射線治療開始前に手術によって卵巣の位置を移動させる(卵巣位置移動術)

精子卵子の凍結保存編集

患者が思春期を迎えている場合には、成熟した精子や卵子を採取できる可能性がある。がん治療によって精子や卵子の産生能力を仮に失ったとしても、治療開始前に採取・保存しておいた精子・卵子を対外受精させるなどして、子をもうけることのできる可能性を残すことができる。

男子編集

患者が成人である、または明らかに精通を迎えている年齢である場合は、「用手法」(ようしゅほう,=マスターベーション)によって患者自身の手で射精させ、精液を採取(採精)する。

思春期の患者の場合、本人への聞き取りによって精通を確認したり、医師看護師の観察所見において、性器の発達段階が タナー段階 III度(精巣の容量が6〜12mL、陰茎(弛緩時)の長さが6cm、思春期突入から概ね2年の状態) および/または 12歳以上の場合[5]には、射精が可能と判断し、マスターベーションをさせる[注釈 1]

勃起障害や射精障害などがあったり、思春期初期の患者で用手法の適用に支障がある場合には、バイブレータの使用や、直腸に電極を挿入して前立腺に電気刺激を与え強制射精させて精液を採取する[2]

射精による採精は外科的手法によるものと異なり精巣組織を傷つけずに精子を採取できるため、主にこちらの方法がとられる。

2〜3日以上の間隔をあけて同様の方法で再度射精した精液を採取して、少なくとも2回分以上の精液標本を採取・凍結保存するのが理想的とされる[5]

精液内に精子が含まれていなかったり、射精をしない(ドライオーガズムとなる)場合は、全身麻酔または局所麻酔下で精巣上体からの精子の採取(精巣上体精子吸引術)もしくは、精巣の組織の一部を外科的に採取(精巣内精子採取術, TESE)し、その中にもし精子があれば採取する[2][注釈 2]

女子編集

女子では排卵誘発剤を約2週間投与して排卵を促し、超音波(腹部エコー)で確認しながら卵子を採取する。ただし2週間はがん治療に着手できないため、この方法が使えない場合もある[2]

精巣組織・卵巣組織の凍結保存編集

患者がまだ思春期を迎えていない場合は、精巣や卵巣の組織の一部を外科的に採取して凍結保存する。採取した未成熟な精巣組織をがん治療の終了後に患者の精巣に移植したり、未成熟な卵巣組織から卵胞を取り出して成熟させたのちに体外受精させる方法がある。

凍結保存された卵胞から出産にまで至った臨床事例があるが臨床研究段階である。凍結保存した精巣組織の場合は挙子に至った例はない[4]。また、がんが精巣や卵巣に及んでいた場合には適用できない。

小児への適用編集

妊孕性の温存は将来の生活の質の向上にとって大切なことであるが、小児がんなどの治療に際し思春期の子供に対して行う場合は、思春期の性にかかわる非常にデリケートな問題となる。

女性の妊孕性温存においては未成熟の卵胞組織から挙子に至った臨床事例もあるものの、男性の妊孕性温存においては、精巣組織の凍結保存による挙子に成功した臨床事例がいまだ存在せず[4]、化学療法やホルモン療法に対しては防護の方法もないことから、射精のできない思春期以前の男児に適用可能な妊孕性温存療法が存在しないのが現状である[4]

すなわち、(クローン技術等の研究段階にある手法を除けば)治療開始までに射精できるかできないかが将来(遺伝的につながりのある)自分の子をもてるかもてないかを決定づけることとなる。射精できなければ挙子の可能性を永久に失うことを意味するため、国や地域によっては、精通経験のない思春期初期の男児に対しても射精の可能性を探ることがある。

米国の臨床現場では医療関係者から患者本人や保護者に対して詳細な説明が行われるほか、マスターベーションの具体的方法を教えて大人の監督下で実行させたり、医師が手やバイブレーターを使って陰茎を刺激[2]したり、または直腸に挿入した電極から前立腺を電気刺激して強制射精させるなどして精液を採取することもあり、説明と同意(保護者に対するインフォームドコンセント、および患者に対するインフォームドアセント)を徹底しているが、医療行為と性的虐待との狭間でそのような若年者、とりわけ性的同意年齢(米国では州により16歳~18歳,日本では13歳)に満たない児童への適用は避けるべきであるとする立場もある。

日本においては、明らかに射精可能な年齢、所見でない限りは、医療関係者はもっぱら保護者に情報提供をするのみであり、患者本人への説明や、子供がすでに射精可能かどうかの確認、妊孕性温存のために精子や精巣組織を保存するべきかどうかの判断は保護者に委ねられる場合が多い。

注釈編集

  1. ^ ただし、小児専門病院で行われる場合は、成人を対象とした不妊症外来などとは異なり、専用の採精室や、性的興奮を喚起するような書籍・映像は用意されない。
  2. ^ 精子は精巣で産生されてから約74日をかけて射精可能となる。したがって、精通を迎える前でまだ射精できない、または精液の中に精子が含まれていなかったとしても、精巣では妊孕能力をもつ精子が既に産生されている可能性がある。

出典編集

  1. ^ がんサポート. “妊孕性温存は 乳がん治療の準備と並行して迅速に行う”. 2018年6月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e ノースウェスタン大学 Oncofertility Consortium. “子供とがん あなたのお子様の妊孕性と健康な思春期を守ること”. 2018年3月21日閲覧。
  3. ^ ノースウェスタン大学 Oncofertility Consortium. “がんと診断されたお子様のための妊孕性温存療法”. 2018年3月21日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 京都府立医科大学大学院医学研究科 宮地充,細井創. “小児がん領域における妊孕性温存治療”. 2018年6月19日閲覧。
  5. ^ a b ノースウェスタン大学 Oncofertility Consortium. “Sperm Banking”. 2018年3月21日閲覧。