豊臣秀長
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが) または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文9年3月2日(1540年4月8日) |
死没 | 天正19年1月22日(1591年2月15日)[1] |
改名 |
小竹(幼名) 木下長秀 → 羽柴秀長 → 豊臣秀長 |
別名 | 長秀、通称:小一郎、美濃守、大和大納言 |
戒名 | 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士 |
墓所 |
奈良県大和郡山市(大納言塚) 京都市大徳寺大光院 |
官位 |
従五位下、美濃守、従四位上、 参議兼右近衛権中将、従三位、 権中納言、正三位、従二位、権大納言 |
主君 | 織田信長 → 秀信 → 豊臣秀吉 |
氏族 | 木下氏 → 羽柴氏(豊臣氏) |
父母 | 父:竹阿弥、母:仲 |
兄弟 | 智、秀吉、秀長、旭 |
妻 | 智雲院 |
子 |
小一郎(夭折)、大善院(毛利秀元室)、おみや(豊臣秀保室) 養子:秀保、仙丸、岩(名古屋山三郎の妹。小一郎室、後に森忠政室) |
豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある[2])。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。
最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。
生涯編集
織田信長の時代編集
天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれる。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、面識は少ないと思われる。
斎藤龍興との戦いでは、合戦に参加する秀吉に代わって城の留守居役を務めることが多かった。
天正元年(1573年)、秀吉が浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となると、城代を務めることもあった。この3年後、1576年には、秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官し、この主従関係は秀長の養子である秀保が早世するまで続いた。天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣する(『信長公記』)。
秀吉が信長の命令により中国攻めの総司令官となると、山陰道及び但馬国平定の指揮を委ねられる。黒田孝高宛の秀吉直筆の手紙に、信頼の代名詞として「小一郎」(秀長の通称)の名が出るなど、秀吉陣営の最重要の人物に成長する(黒田侯爵家文書)。天正5年(1577年)に秀吉に従い播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦した。竹田城が斎村政広によって落城(竹田城の戦い)すると、城代に任命される(『信長公記』)。
天正6年(1578年)に東播磨地域で別所長治が反旗を翻し、兄と共に制圧に明け暮れることとなり、支配の後退した但馬を再度攻めることとなった。同年、黒井城の戦いに援軍として参戦する。
天正7年(1579年)、別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃する。続いて淡河城を攻めるが、淡河定範の策により撤退した。しかし定範が城に火を放ち、三木城に後退したため補給路を断つことに成功する(三木合戦)。但馬竹田城より丹波北部の天田郡、何鹿郡に攻め入り江田氏の綾部城を攻略し落城に追い込む。
天正8年(1580年)1月に別所一族が切腹し、三木合戦が終戦する。同年、秀吉軍が但馬国有子山城を落城させ[4]、但馬国平定が完了する。戦後、但馬国7郡10万5千余石と播磨国2郡を与えられた[4]。同年5月、有子山城に入る[4]。祐豊の子山名堯煕は羽柴家家臣として召し抱えられ鳥取城攻めに従軍する。それに伴い但馬国人の多くは羽柴家家臣となった。
天正9年(1581年)3月に毛利家から吉川経家が鳥取城に入城する。秀吉は鳥取城を取り囲み、兵糧攻めが開始される(鳥取城の戦い)。秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮する。同年10月、経家の切腹により終戦する。
天正10年(1582年)4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、水攻めを行う(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦する。6月には水攻めの効果により、城主・清水宗治が切腹する。
秀吉の時代編集
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長が明智光秀による謀叛(本能寺の変)で死亡すると、秀吉軍はすぐさま戦闘状態であった毛利家と和睦協定を結び、畿内へ撤退を開始する。秀吉の「中国大返し」に従って、秀長も山崎の戦いに参戦、黒田孝高と共に天王山の守備にあたる。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦する。美濃守に任官し、播磨・但馬の2ヶ国を拝領して姫路城と有子山城を居城にした。
天正12年(1584年)、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きる。秀長は守山に進軍し、家康と連合を組んでいる織田信雄を監視した。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴いている。この戦いでは甥・羽柴秀次が失態により秀吉に叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では秀長と共に従軍し、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。
天正13年(1585年)、紀州征伐では、秀次と共に秀吉の副将に任命される。紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられる。同年、居城となる和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命する。
同年6月、四国攻めでは病気で出陣できない秀吉の代理人として、10万を超える軍勢の総大将に任じられる。しかし長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏・宇喜多氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となった。心配した秀吉から援軍の申し出がなされたが、秀長は断りの書状を秀吉に送った(『四国御発向事』)。同年閏8月、長宗我部元親を降した功績を賞され、紀伊国・河内国に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入る(かつての領主・筒井定次は伊賀国へ転封)。秀長の領国である紀伊・大和・河内地方は寺社勢力が強く、決して治めやすい土地柄ではなかったが、諸問題の解決に時に苛烈な処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったところを見ると、内政面でも辣腕であったことが窺える。現に大和入国と同時期に盗賊の追補を通達(廊坊家文書)・検地実施(諸家単一文書)・全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施している。また、大和の陶器・赤膚焼を開窯するなど広い政策も行った。このころ豊臣の本姓を与えられる[3]。
従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称される。
天正14年2月8日(1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)。この頃から体調が崩れやすくなったと思われ、この後も数度にわたり湯治に訪れている。また、湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れている。同年10月26日(12月6日)、上洛を拒み続けた徳川家康が大坂に到着し、秀長邸に宿泊した。その晩、秀吉自ら家康の前に現れて臣従を求める出来事が起きる。これを記す文献は多く存在する(『家忠日記』・『徳川実紀』)。
天正14年(1586年)、大友宗麟が島津氏の圧迫により窮地に陥り、秀吉の参戦介入と救済を求めて上洛。秀吉は宗麟をもてなし「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べた。つまり、豊臣政権の大名統制の権限が秀長に委託されていたことが知られるのである(『大友家文書録』)[5]。同年8月、奥熊野の地侍たちによる一揆が発起する(北山一揆)。秀長も出陣したが、豪雪のため征伐は留まった。天正17年(1589年)には一揆は鎮圧された。
天正15年(1587年)の九州平定では日向方面の総大将として出陣する。耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛ける(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・戸川達安らが合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退する。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね、日向方面の進軍は終了する。この功績により、8月に従二位権大納言に叙任された。しかし秀長は、九州征伐に参加した大名に割高な兵糧を売り付けようとして秀吉に止められている。
天正16年(1588年)、紀伊の雑賀において材木の管理をしていた代官・吉川平介が、秀長に売買を命じられた熊野の材木2万本の代金を着服する事件が起きた。秀吉の耳に届き、吉川が処刑される。秀長自身も責任を問われ、秀吉から翌年の年頭の挨拶を拒否された。
天正17年1月1日(1589年2月15日)、大坂城にて諸大名と共に、秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う(『後編旧記雑録』)。この後、秀長が大坂城を訪れたという記録はない。天正18年(1590年)1月頃から病が悪化、小田原征伐には参加できなかった。10月頃に秀次が秀長の病気回復の祈願のため談山神社に訪れており(談山神社文書)、両者の関係も良かったと思われる。
天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は郡山城内で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保に継がせた[6]。郡山城には金子56,000余枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になる程の金銀が備蓄されていたという(多聞院日記)。
戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。現在の大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わる。また大阪市中央区の豊國神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られている。
秀長の家系は4年後の文禄4年4月16日に秀保が17歳で死去したことにより断絶した[7]。
名称の変遷と官歴編集
通説では幼名を小竹(こちく)と称したとされるが、確認できる文書はない。その後、小一郎(こいちろう)と改称し、兄・秀吉に仕官した時には木下小一郎長秀と名乗った。
秀吉が木下から羽柴に名字を改めたのは天正元年(1572年)以降であるが、秀長が発給した文書で羽柴を使用した初見は天正3年(1575年)11月11日付の発給文書からであり、羽柴小一郎長秀と署名している。次に(通称を)小一郎から美濃守へ代えているが、自己発給文書では小一郎の終見は天正10年(1582年)12月25日付、美濃守の初見は小牧・長久手の戦いの頃である天正12年(1584年)5月4日付である。他の文書から、賤ヶ岳の戦い後の論功行賞の一環により天正11年(1583年)の5月から7月頃と考えられる。更に天正12年(1584年)6月8日から9月12日までの間に長秀から秀長へ改名し、以後、死ぬまで秀長を使用した。これは、小牧・長久手の戦いにより信長の実質的後継者としての地位を兄・秀吉が揺るぎないものとしたため、秀の字を上に持ってきたものと考えられる。
官位については、美濃守以降、天正13年(1585年)10月4日に従四位下参議、天正14年(1586年)10月4日に従三位権中納言、天正15年(1587年)8月8日に従二位権大納言(徳川家康と同位同日に任官)に昇進して、以後天正19年(1591年)1月に没するまで代わることはなかった。また、天正16年(1588年)4月15日付で聚楽第へ行幸した天皇に諸大名が提出した起請文では、唯一豊臣姓を署名している[8]。
人物像編集
秀長は温厚な性格で、秀吉を補佐し、彼の偉業達成に貢献した。また寛仁大度の人物で、よく秀吉の欠点を補った。そのため諸大名は秀長に秀吉へのとりなしを頼み、多くの者がその地位を守ることが出来た。 寺社の多い大和を治めたが、大きな諍いもなかったことから実務能力も高かったと思われ、もし寿命が長ければ、豊臣の天下を永く継続させることができたかもしれないと評価されている[6]。
系譜編集
妻編集
実子編集
- 羽柴小一郎:木下与一郎(与市郎)とも。本能寺の変前後に夭折。
- 大善院(おきく):秀長長女。母は興俊尼。毛利秀元の正室。(1587~1609)。
- おみや[注 1]:秀長次女。天正19年(1591年)1月に幼くして、従兄弟の秀保の正室となる。秀長が、天正16年に長谷寺に寄進した金燈籠に「和州大納言秀長公姫君三八(みや)女」と刻まれている人物と考えられる。
養子編集
家臣編集
「三家老」として横浜一庵(5万石)、羽田正親(4万8千石)、小川下野守(3万5千石)がいる。
木下昌利(将監[11])[注 2]は、秀長の但馬国有子山城主時代に、城代として配されていたようである[4]。昌利は「秀長の一族」と伝わる[11]。三木合戦においては三木城包囲に参加した。
その他に藤堂高虎、宇多頼忠(1万3千石)、桑山重晴、小堀正次(新介、5千石)、吉川平介(平助、7千石)、杉若無心、多賀秀種、本多俊政(大和高取1万5千石)、堀秀村、黒田利則、黒田直之、紀州の国人である玉置直和や湯川光春[12]、賤ヶ岳の戦いで一番槍となった桜井家一(佐吉、3千石)などがいた。
また、中井正清、小堀政一(遠州)など、築城、造園に長じた人物を多数登用した。正清、政一らは秀長の死後、それぞれ徳川家康に召抱えられて栄達し、近世の建築に寄与した。
菩提寺編集
- 如意山春岳院
- 奈良県大和郡山市新中町2
- 大納言塚
- 大和郡山市箕山町14-8
秀長を題材とした作品編集
- 司馬遼太郎「大和大納言」(初出は『豊臣家の人々』中央公論社・1967年 に所収。現在は『豊臣家の人々』中公文庫・ISBN 4122020050・1993年、及び『司馬遼太郎短篇全集 第十一巻』文藝春秋・ISBN 4166415603・2006年 に所収)
- 堺屋太一『豊臣秀長―ある補佐役の生涯』(初出は1985年、現在は文春文庫・上巻 ISBN 4167193140 下巻 ISBN 4167193159・1993年) - 1996年NHK大河ドラマ『秀吉』原作
- 志木沢郁『豊臣秀長』(学研M文庫・ISBN 9784059012184・2008年)
- 鞍馬良『秀長さん』(文芸社・ISBN 9784286119724・2012年)
- 福永英樹『志 豊臣秀長伝』(幻冬舎・ISBN 9784779009372・2013年)
脚注編集
注釈編集
- ^ 秀保室の実名をおきくと比定する説があるが、『駒井日記』文禄三年三月三日の条に同書で秀保室と扱っている”大和御うへ様”と”大和おきく様”という言葉が同時に出てきており秀保室と”おきく”は別人であることが分かる。
- ^ 阿部・西村編『戦国人名事典』では、「秀吉の臣」としている[11]
出典編集
- ^ 『羽柴秀長』 - コトバンク
- ^ 小和田哲男 『豊臣秀吉』中央公論社、1985年、67頁。
- ^ a b 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。
- ^ a b c d 平凡社地方資料センター 1999, p. 801.
- ^ 宮本義己 『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年、152頁。
- ^ a b 渡辺世祐 『豊太閤の私的生活』講談社、1980年、245頁。(初版は創元社から1939年に発行)
- ^ 黒田基樹 『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、49頁。
- ^ 小竹 1997.
- ^ https://stone-c.net/report/3300/2
- ^ 新人物往来社 編 『豊臣秀長のすべて』新人物往来社、1996年。ISBN 4-404-02334-0。p=220
- ^ a b c 阿部・西村 1987, p. 284.
- ^ 小竹 1998.
参考文献編集
- 桑田忠親 編 『豊臣秀吉のすべて』新人物往来社、1981年。
- 新人物往来社 編 『豊臣秀長のすべて』1996年。ISBN 4404023340。
- 小竹文生「羽柴秀長文書の基礎的研究」『駒沢大学史学論集』27号、1997年。
- 小竹文生「但馬・播磨領有期の羽柴秀長」『駒沢大学史学論集』28号、1998年。
- 小竹文生「羽柴秀長の丹波福知山経営」『駒沢大学史学論集』29号、1999年。
- 阿部猛・西村圭子 編 『戦国人名事典』新人物往来社、1987年3月10日。ISBN 4-404-01412-0。
- 平凡社地方資料センター 編 『兵庫県の地名Ⅰ』平凡社〈日本歴史地名大系 第二九巻Ⅰ〉、1999年10月20日。ISBN 4-582-49060-3。
- 小竹文生「豊臣政権の九州国分に関する一考察―羽柴秀長の動向を中心に―」『駒沢史学』55号、2000年。
関連項目編集
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