宮田 一松(みやた いちまつ、1908年明治41年)3月21日[1] - 1986年昭和61年)5月2日[1])は、愛知県碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町上)出身の政治家刈谷市長(4期16年間)。

宮田 一松
みやた いちまつ
生年月日 1908年3月21日
出生地 愛知県碧海郡依佐美村
(現・刈谷市小垣江町上)
没年月日 1986年5月2日(78歳)
出身校 刈谷町立亀城尋常小学校

当選回数 4回
在任期間 1967年7月20日 - 1983年7月19日
テンプレートを表示

経歴

編集

実業家として

編集

1908年(明治41年)3月21日、愛知県碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町上)に生まれた。1920年(大正9年)3月、碧海郡刈谷町刈谷町立亀城尋常小学校を卒業した[2]

宮田家は瓦製造業者であり[3]、1933年(昭和8年)に宮政製瓦工場の営業主となった[2]。1951年(昭和26年)には短期間だけ三州瓦工業組合理事長を務めている[2]。1962年(昭和37年)12月には宮政瓦工業株式会社の取締役社長に就任した[2]。1965年(昭和40年)2月に刈谷ライオンズクラブが設立されると、1966年(昭和41年)6月まで初代会長を務めた[2]。1973年(昭和48年)11月には宮政瓦工業株式会社の会長に就任した[2]

政治家として

編集

1947年(昭和22年)5月1日には刈谷町議会議員に初当選[2]。1950年(昭和25年)4月1日に刈谷町が市制施行して刈谷市が発足すると、1951年(昭和26年)5月1日には刈谷市議会議員に当選した[2]。1952年(昭和27年)6月1日から1953年(昭和28年)1月31日までは刈谷市議会議長を務めている[2]。1959年(昭和34年)9月30日には刈谷市助役に就任し、1965年(昭和40年)12月28日まで高田一郎市長の下で助役を務めた[2]

1967年(昭和42年)7月20日、高田一郎の後任として刈谷市長に就任した。「1小学校区1幼稚園」制度の整備、愛知教育大学の誘致、愛知県立刈谷東高等学校の開校、刈谷文化協会や刈谷市国際友好協会(現・刈谷市国際交流協会)の創設などに尽力した。刈谷市長時代には全国市長会理事(1970年~1971年)、愛知県市長会副会長(1970年~1971年、1978年~1979年)、愛知県市長会監事(1971年~1972年)、東海市長会理事(1978年~1979年)などを歴任している[2]

政治家引退後

編集

1983年(昭和58年)7月19日に4期務めた刈谷市長を退任し、市長の座を角岡与に譲った。1983年(昭和58年)4月29日、勲四等旭日小綬章を受けた[2]。同年9月22日、刈谷市名誉市民に推挙された[2]。1986年(昭和61年)5月2日に死去した。

著書

編集
  • 宮田一松『私のアメリカ見聞記』刈谷市、1972年
  • 宮田一松『私のあいさつ集』宮田一松、1977年
  • 宮田一松『私の人生七十五年』宮田一松、1983年
  • 宮田一松『中国を訪問して』刈谷市、1983年

脚注

編集
  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、243頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 宮田一松『私の人生七十五年』宮田一松、1983年、
  3. ^ 大野一造『刈谷市人物一覧』大野一造、1965年
公職
先代
高田一郎
 愛知県刈谷市長
1967年 - 1983年
次代
角岡与