小池龍二

日本の陸軍軍人

小池 龍二(こいけ りょうじ、1898年(明治31年)9月7日 - 1993年(平成5年)8月19日)は、日本陸軍軍人実業家。最終階級は陸軍少将

小池 龍二
生誕 1898年9月7日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1993-08-19) 1993年8月19日(94歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1919 - 1945
最終階級 陸軍少将
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経歴

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東京出身。三井鉱山技師・小池政吉の二男として生まれる。

1911年(明治44年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し近衛歩兵第2連隊中隊長に就任。

1928年(昭和3年)12月、教育総監部付勤務となり、教育総監部課員を経て、1932年(昭和7年)7月から1934年(昭和9年)9月までフランスに駐在。1934年8月、歩兵少佐に昇進。同年9月、陸軍習志野学校教官に就任し、教育総監部課員を経て、陸軍省軍務局課員(軍事課)に移り、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に進級。1938年(昭和13年)1月、秩父宮雍仁親王付武官を兼務。1939年(昭和14年)3月、第1軍参謀となり日中戦争に出征。同年8月、歩兵大佐に進級。同年9月から1940年(昭和15年)12月まで参謀本部課長に在任し、この間の1940年6月、大本営付となり仏印国境監視委員を務めた。1940年9月、大本営参謀兼印度支那派遣軍高級参謀となる。1941年(昭和16年)4月、教育総監部総務部第2課長に就任し太平洋戦争を迎えた。

1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進み習志野学校付となる。1944年(昭和19年)2月、習志野学校長に就任。1945年(昭和20年)2月、教育総監部総務部長に発令され、同年4月、最後の侍従武官に着任し終戦を迎えた。同年12月、予備役に編入。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

戦後、1959年(昭和34年)1月から1969年(昭和44年)7月まで三島製紙専務を務めた。

親族

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脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」54頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。