小笠原 就長(おがさわら なりなが)は、江戸時代の武士。毛利氏家臣で長州藩士。父は小笠原長親

 
小笠原就長
時代 江戸時代
生誕 慶長7年(1602年
死没 元禄4年4月11日1691年5月8日
改名 弥二郎(幼名)→小笠原就長
別名 次左衛門尉→弥右衛門尉(通称
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 清和源氏義光流石見小笠原氏
父母 父:小笠原長親
母:千代姫小笠原長旌の娘)
兄弟 就長長之
中村隆安の娘(益田就方の養女)
長慶
養子:小笠原長信長野政利の次男)
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生涯 編集

慶長7年(1602年)、石見小笠原氏当主・小笠原長親の長男として生まれる。石見小笠原氏は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の毛利氏減封の際に毛利氏から離れて坂崎直盛の元に身を寄せていたが、元和2年(1616年)に坂崎氏の津和野藩改易されたため、毛利氏へと帰参した。

就長は毛利秀就の加冠を受けて元服。秀就から「就」の偏諱を与えられ、秀就に側近として仕えた。寛永19年(1642年1月1日、秀就から「弥右衛門尉」の官途名を与えられた。

就長が秀就に仕えて後も、就長の弟の長之は毛利家に仕官していなかったが、父・長親の御養扶持を長之に与えるよう申し出て許可された。その後、就長の知行と長之の知行の交換を申し出て許可されている。

また、毛利綱広が幼年のころから綱広付きの家臣となって二度の加増を受け、最終的に200石を知行した。元禄4年(1691年4月11日、90歳で死去。後を子の長慶が継いだ。

参考文献 編集

  • 萩藩閥閲録』巻81「小笠原友之進」、巻94「小笠原弥右衛門」