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小笠原 長旌(おがさわら ながはた)は、戦国時代から安土桃山時代武将石見小笠原氏第15代当主。

 
小笠原長旌
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄4年6月6日1595年7月12日
または 慶長8年6月6日1603年7月14日
別名 与次郎、少輔七郎
戒名 天叟院殿常久大居士
官位 大蔵大輔
主君 毛利元就輝元
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長雄、母:吉川元経の娘
兄弟 長旌元枝長秀糸賀盛家[1]三吉氏室、出羽氏室、永田氏室、君谷氏
正室:三原局
千代童丸千代姫小笠原長親室)

目次

生涯編集

石見国の武将・小笠原長雄の子として誕生。

毛利氏に属し、永禄12年(1569年)の尼子勝久が蜂起した際は先陣を務め活躍した。同年12月に父・長雄が死去したため、家督を継ぐ。

吉川経言養子縁組問題編集

長旌は病弱であり、実子がいなかったことから、重臣の小笠原長治吉川氏から養子を迎えようと画策。当初は吉川元春の四男・吉川松寿丸を養子に迎えたいと要請したが、まもなく松寿丸が早世したため、天正7年(1579年)に元春の三男・吉川経言を養子に迎えることを要請。経言も父を押し切る形でこの話に乗った。ところが、天正9年(1581年)、小笠原氏と吉川氏の間で養子縁組の合意がなされ、残るは主君・毛利輝元の承認を受けるだけという段階に至って、輝元が激しく反対したため、この養子縁組は取り止められた。

光成準治はこの養子縁組の話を、長旌からすれば吉川氏から養子を入れて毛利氏一門になることで毛利氏に没収された本領の温湯城の返還につながるという期待から始まり、所領の乏しい吉川氏の庶流である宮庄氏を継ぐことになっていた経言は自己への待遇の低さに対する不満からこれに応じ、一方の輝元は家中での吉川氏の発言力増大と旧尼子方でも最後まで毛利に抵抗していた小笠原氏の家格上昇は他の旧尼子家臣とのバランスを崩すことへの警戒感から反対したと解説する(後に輝元は経言の不満を解消させる為に隠岐国一国を与えることになる)。

後継ぎと転封編集

これ以降も長らく長旌に男子が生まれず、病で在広島の勤めが出来なかったため、長旌の娘と長旌の弟・元枝の子である長親とを婚姻させ、小笠原氏の後継とし、元枝をその後見とした。その際に、これ以後に長旌に実子が生まれた場合はその実子を後継とすると定めており、天正19年(1591年)に長旌に実子である千代童丸が生まれると、千代童丸が後継となった。しかし、千代童丸は翌年に早世したため、再び長親を後継、元枝を後見として家政を宰領させることとなる。

長旌時代の小笠原氏領は、河本や三原を中心に江の川北岸に広がり、邑智迩摩安濃那賀の四郡に渡って、約1万7,000石に及んでいたが、天正20年(1592年)に毛利輝元より、出雲国神門郡神西へと転封され、石見国を離れることとなる。この際、小笠原氏は出雲について行きたいと願い出た多くの家臣を石見に残し、主だった親族とさしあたり必要な家臣を伴って神西へと移ったため、残された小笠原氏一族と家臣等の多くは帰農することとなった。

「丸山伝記」や、神西の大就寺にある碑文によれば文禄4年(1595年)に、「孫左文書」によれば慶長8年(1603年)に長旌は死去したとされる。

脚注編集

  1. ^ 『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』16頁

参考文献編集

  • 萩藩閥閲録
  • 川本町誌編纂委員会『川本町誌 歴史編』(1977年
  • 三卿伝編纂所編『毛利元就卿伝』(マツノ書店1984年
  • 井上寛司「石見小笠原文書について」(島根大学山陰地域研究総合センター編『山陰地域研究』(伝統文化)第2号、1986年
  • 川本町歴史研究会編『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』(川本町歴史研究会、2001年
  • 光成準治「吉川広家をめぐる三つの転機」光成準治 編『シリーズ・織豊大名の研究 第四巻 吉川広家』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-215-5 総論