岡本癖三酔

戦前日本の俳人、画家

岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年(1878年9月16日生 - 昭和17年(1942年1月10日)は、戦前日本俳人画家。有季自由律を代表する俳人で、俳画の先覚者としても非常に評価が高い。本名は廉太郎、別笛声碧山水など。

経歴 編集

充実の時代 編集

父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。

芸術としての俳句は正岡子規河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。虚子は東洋城、癖三酔の句に賛同する場合が多く、河東碧梧桐の新傾向淤の「俳句三昧」に対抗した。更に、慶大の同級生、籾山仁三郎(江戸庵)らと「三田俳句会」を結成。ここから久保田万太郎大場白水郎らが育った。

ホトトギスを離脱、大正7年(1918年)に、有季自由律を標榜する俳句雑誌『新緑』を主宰し、途中から『ましろ』と改題し[1]、20年間発行し続けた。発行の陰には、発行業務と編集のいっさいを引き受けた門人の尽力があった。更に『自画賛句帖』を100冊を作成。

神経衰弱後 編集

しかし、岡本はその後、神経衰弱糖尿病のため、芝区三田一丁目の松山病院に入院。病院に入院してからは、生涯に渡り門外不出となる重い精神疾患を患った[2]。自分の部屋から一歩も出ずに、昼間から雨戸を閉め切って、ルミナール6錠(カルモチン30錠に相当する。)を飲んで寝てしまうという生活が15年以上続いた。

やがて主治医で歌人の大埜間霽江の尽力もあり、ましろの同人句会や「藤よし」にも出席するようになった。手製絵葉書を乱発し始めここから、俳句を俳画の融合させる新芸術の創造に繋がっていく。57歳にして、神経衰弱を克服し、多摩川浦安三宝寺池豊島園に毎日出かけ、池のにありったけの餌をばらまく日々を過ごした。昭和10年(1935年)を過ぎると、『ましろ』の句会はしばしば防空演習、灯火管制のために中断された。

大東亜戦争中に生涯を閉じた。墓所は小田原市光円寺

逸話 編集

  • 俳号が「癖三酔」のため、人からよくを贈られたが一滴も飲めない。
  • 娘が一人おり、順心女学校(現在の広尾学園中学校・高等学校)へ通っていた。しかし、岡本より先に自殺して他界している。
  • 精神疾患が良くなり、外出するようになると、毎晩銀座のカフェに通い続けた。

代表句 編集

  • 睡蓮すつかり暗くなり灯り/沢潙の窓の風に寝てしまつて/戸を開けて夜の雨空を見あげへうたんの花
  • 白い花が首を垂れて庭を冬にしてゐて/軒に青桐が棒立ちで冬中/庭木三十四本に添木して三十三才
  • 紙芝居の大当たりの小春で
  • 顔知つてる手妻師の若葉銀座
  • ほほづき一ツ真赤な弱い男
  • 師走の樹々ただ黒く人あゆみ
  • 町が淋しくなり電信のはりがねの凧/軒にのびた藤の枯れきつた風の空で
  • 長い橋で広い川で草は春になってゐる/路ばたの草の青み自動車倒れさうにゆられ

主な著書 編集

  • 『癖三酔句集』
  • 『俳句脱糞論』
  • 『句死骸』
  • 『江戸川べりの半日』(随筆)

参考文献 編集

  • 『俳人風狂列伝』石川桂郎 角川書店, 1973年(のち、角川選書)

脚注 編集

  1. ^ 日野百草「戦前の自由律における社会性俳句」『橋本夢道の獄中句・戦中日記』 284頁
  2. ^ 石川(1973年)P.94

関連項目 編集

外部リンク 編集