嵐 璃徳(あらし りとく、1875年12月31日 - 1944年[1]/没年不詳[2][3])は、日本俳優である。関西歌舞伎に始まり、牧野省三が監督した日本初の時代劇映画、日本初の剣戟映画に出演、サイレント映画の時代に映画俳優として活躍した[3]。本名は井上 徳太郎(いのうえ とくたろう)[2][3]

あらし りとく
嵐 璃徳
本名 井上 徳太郎 (いのうえ とくたろう)
生年月日 (1875-12-31) 1875年12月31日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市北堀江町(現在の同府同市西区北堀江
職業 俳優
ジャンル 関西歌舞伎劇映画時代劇サウンド版サイレント映画
活動期間 1880年 - 1944年頃
活動内容 1880年 先代嵐璃徳に入門
1882年 初舞台
1894年 嵐璃徳襲名
1908年 横田商会
1917年 天活
1920年 帝国キネマ演芸設立に参加
1931年 同社の新興キネマ改組で継続入社
1935年 映画引退、舞台復帰
主な作品
本能寺合戦』(1908年)
忍術三勇士』(1920年)
丸橋忠弥』(1920年)
四谷怪談』(1921年)
実録忠臣蔵』(1921年)
ある敵討の話』(1923年)
羅馬の使者』(1924年)
清水次郎長』第一篇・第二篇(1924年)
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人物・来歴 編集

1875年(明治8年)12月31日大阪府大阪市北堀江町(現在の同市西区北堀江)の花柳街の料亭を生家に、「井上徳太郎」として生まれる[2][3]。その環境から、幼少より芸事を覚える[2]

満4歳にして1880年(明治13年)、先代・嵐璃徳に入門[2]、2年後の1882年(明治15年)に大阪・角座で初舞台を踏んだ[2]。満18歳となった1894年(明治27年)、「嵐璃徳」を襲名、関西歌舞伎の若手俳優として名を馳せた[2]

1908年(明治41年)、京都の芝居小屋・千本座中村福之助の一座の一員として公演を行ったとき、横田商会が同劇場のオーナーである牧野省三に映画を撮るよう依頼し、璃徳らはこれに出演、映画俳優としてデビューした[3]。これが日本初の時代劇映画『本能寺合戦』であり、同年9月17日東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)の錦輝館等で公開された。璃徳は同作で森蘭丸を演じ、『ピストル強盗清水定吉』(1899年)の横山運平、同作の中村福之助らとともに、日本初の映画俳優のひとりとなった[3]

この後、1917年(大正6年)、大阪府下中河内郡小阪村(現在の東大阪市小阪)にあった天然色活動写真(天活)の大阪撮影所が製作した映画『大石山科の別れ』に大石内蔵之助(大石良雄)役で主演している。やがて天活が崩壊し、1920年(大正9年)5月に帝国キネマ演芸(帝キネ)が設立されると、小阪の撮影所は帝キネの撮影所となり、璃徳一座の座付作家・中川紫郎とともに、一座で同社に入社した[3]。入社第1作は、同年に中川が初めて監督した『大江山酒呑童子』である。同年、『忍術三勇士』、『丸橋忠弥』等に主演した[2]

1931年(昭和6年)、帝国キネマ演芸が新興キネマへ改組され、新興キネマに継続入社した。1935年(昭和10年)には、中川信夫が監督した『恥を知る者』を最後に映画界を引退、舞台に復帰した[3]。270作を超える映画に出演した。

その後戦時中にかけ老け役を中心に大芝居で活躍するも、「顔もよく品もあって仁も申し分ないのだが、台詞が与太で困るのだそうだ。」[4]との証言があり、いい加減な台詞覚えで周囲を困らせていた。しかしある日、出勤途中に河内小阪駅で倒れ、間も無く死去したと伝えられているも詳細な没年月日は未だに判明していない。1944年頃の説もある[1]が、没年不詳[2]

おもなフィルモグラフィ 編集

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  1. ^ a b 『日本芸能人名事典』、三省堂、1995年。
  2. ^ a b c d e f g h i 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年。
  3. ^ a b c d e f g h 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.130。
  4. ^ 山田庄一『上方芸能今昔がたり』P・57 岩波書店 2013年

外部リンク 編集