平敷 安常(ひらしき やすつね、1938年〈昭和13年〉 - )は、日本ノンフィクション作家。元米国ABCニュース所属の戦場カメラマン。著書『キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち』で大宅壮一ノンフィクション賞。米国ニュージャージー州在住で国籍もアメリカ。ベトナム人の夫人との間に一女一男がいる。

略歴 編集

沖縄県出身。幼少年期を九州で過ごし、中学3年生の終わりに大阪府に転居した。大阪府立寝屋川高等学校を卒業し[1]、大阪で初の民間放送テレビ局「大阪テレビ放送」に就職。毎日放送(MBS)に移り、ニュース番組カメラマンとして勤務。1965年昭和40年)ベトナム戦争取材班として現地に赴いた。

任期の終了で日本に帰国となるが、現地で取材を継続することを望み、毎日放送を依願退職。フリーランスとして再度ベトナムに渡り、アメリカの放送局abcNewsに正式採用された。

ベトナム戦争終了後は、中東戦争湾岸戦争イラク戦争などの各戦地を取材。また、2001年9.11同時多発テロ事件の時も、ツインタワー超高層ビルのワールドトレードセンター崩壊をカメラに収め、世界に発信した。なお、ツインタワー設計者のミノル・ヤマサキの夫人、平敷照子は縁戚にあたる。

68歳まで現役を務め、ベトナム支局、香港支局、フランクフルト支局、ニューヨーク本社と約40年間に渡り同社に勤め2006年に退社した[2]。日本人で米国abcNewsに正社員として勤務したカメラマンは平敷と、東京支局の大串雅昭の2人だけである。

退職後に上梓した処女作「キャパになれなかったカメラマン~ベトナム戦争の語り部たち~」(講談社・上下巻) にて2009年平成21年)第40回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。70歳を過ぎて、処女作が出版関連の賞を受けるのは極めて稀である。

受賞に際し、審査委員長であった関川夏央は、「若い世代に受賞をしてもらいたいという本音はあったが、70歳を過ぎた彼の、実経験に基づいた圧倒的な筆力・文章力には勝てなかった。」とした。

2011年5月18日号のNewsWeek日本版において、俳優の渡辺謙、テニスプレーヤーのクルム伊達公子らとともに「世界で尊敬される日本人25人」に選出された。[3]

カメラマンとしての足跡 編集

ベトナム戦争の戦地では、アメリカでジャーナリストとして有名なテッド・コッペル英語: Ted Koppelピーター・ジェニングスなどの放送記者とペアを組み、様々な作戦の取材を精力的に行った。戦地における勇猛さ、機敏さから「カミカゼ・トニィ(ヤスツネという名前が発音しづらいため、トニィという愛称で呼ばれていた)」 とニックネームを付けられた。

当時、世界各国からカメラマンやジャーナリストがベトナムに来ており、取材の合間に仲間同士で集まることも多く、平敷の現地歴が長かったことから開高健や、写真『安全への逃避』で知られるピュリッツァー賞受賞者の沢田教一など多くの日本人記者・カメラマンなどと交友があった。

また、1970年昭和45年)沢田の死の前日、最後に会っていたのは平敷であり、お互いに写真を撮り合った。その写真が結果的に沢田の遺影として使われることとなり、一般的に知られる沢田の顔は、この遺影である。

ベトナム戦争時、親友を失った自責の念から、カメラマンに関わる賞・コンクールを拒否しており、関連する受賞歴等はない。

著作 編集

  • 『キャパになれなかったカメラマン~ベトナム戦争の語り部たち』(上・下)
    講談社 2009年/講談社文庫、2013年。(NHK-FM FMシアターにてラジオドラマ化)
  • サイゴンハートブレーク・ホテル 日本人記者たちのベトナム戦争』講談社 2011年
  • 『アイ・ウィットネス~時代を目撃したカメラマン』講談社 2013年

脚注 編集