廉隅
廉 隅(れん ぐう、1886年〈光緒12年〉 - 没年不詳)は中華民国の外交官・政治家・司法官・弁護士。維新政府、汪兆銘政権(南京国民政府)の要人。別号は励清[2]。
廉 隅 Lian Yu | |
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『中華民国維新政府概史』(1940年) | |
生年月日 | 1886年[1] |
出生地 |
清 江蘇省常州府無錫県 (現:無錫市) |
没年月日 | 不詳 |
所属政党 | 中国国民党 (汪兆銘政権) |
在任期間 | 1939年4月 - 1939年8月 |
行政院長 | 梁鴻志 |
在任期間 | 1939年8月 - 1940年3月30日 |
行政院長 | 梁鴻志 |
廉隅 | |
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職業: | 外交官・政治家・司法官・弁護士 |
各種表記 | |
繁体字: | 廉隅 |
簡体字: | 廉隅 |
拼音: | Lián Yú |
ラテン字: | Lien Yü |
和名表記: | れん ぐう |
発音転記: | リエン ユー |
事跡 編集
日本に留学し、京都帝国大学で法学士の称号を取得した。帰国後は北京政府でまず外交部主事に就任する[3]。
以後、1913年(民国元年)1月、浙江省高等審判庁庁長に任命され、11月、辞任する[4]。1914年(民国3年)3月、直隷省高等審判庁庁長に任命され、1920年(民国9年)9月までつとめた[5]。まもなく署理河南省高等審判庁庁長に異動したが、翌月に早くも辞任した[6]。後に天津市で弁護士を開業する[3]。
中華民国維新政府成立後の1938年(民国27年)4月、廉隅はその外交部次長に任じられたが、6月、いったん辞任している。翌年2月、外交部長の陳籙が国民政府の特務に暗殺されると、4月から8月まで廉隅が署理部長をつとめた。次いで署理実業部長に転じる[7]。
1940年(民国29年)3月、維新政府が汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に合流すると、いったんは立法委員に任ぜられる[3]。しかし同年末、廉隅は初代駐満洲国大使に任命され、1943年(民国32年)2月までこの役職を務めた(後任は陳済成)。いったん大使在部弁事となり、1945年(民国34年)5月に汪兆銘政権最後の駐日大使に任ぜられた[8]。
注 編集
参考文献 編集
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
中華民国維新政府
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