御匣殿 (藤原道隆四女)

平安時代中期の女官

御匣殿(みくしげどの、生年不詳[1] - 長保4年6月3日1002年7月15日)は、平安時代中期の女性。一条天皇代の後宮女官で、皇后定子御匣殿別当。本名は不詳。関白藤原道隆の四女、母は高階成忠の娘・正三位貴子

生涯

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母を同じくする長姉定子(一条天皇皇后)に御匣殿別当として仕え、『枕草子』にも幾たびか登場する。『栄花物語』「鳥辺野」の巻によれば、死を予感した定子より姪の脩子内親王媄子内親王、甥の敦康親王の養育を託され、長保2年(1000年)12月に定子が亡くなったのち、3人の遺児の母代となった[2]。皇子女たちの世話をしているうちに、皇后定子を失った一条天皇の心を捉え、やがて寵を受け懐妊した。同母兄の伊周隆家らは皇子誕生を願って喜んだが、里に退出した彼女は身重のまま没した。美しく控えめな性格の女性であったといい(『大鏡』『栄花物語』)、天皇は定子に続く彼女の死にいたく落胆した。

脚注

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  1. ^ 権記』が記す没年月日および『栄花物語』「はつはな」の巻が記す没年十七、八から推算して、およそ寛和元年(985年)または翌年頃の生まれか。しかし、『小右記正暦四年(993年)二月二十二日条によれば、姉2人(三条天皇東宮女御原子敦道親王室・道隆三女)と同時に裳着しており、当時の慣習からして10歳以下とは考えにくく、天元の末、永観の初めに生まれた可能性も大いにある。また『栄花物語』は、御匣殿が寛弘元年(1004年)に亡くなったような書き方をしているが、実際には長保4年(1002年)6月3日、2人目の姉原子よりも2か月早く亡くなっている。
  2. ^ 権記』長保三年二月十二日条に故関白四女(御匣殿)出家の記事がある。