惜別』(せきべつ)は、太宰治小説

惜別
著者 太宰治
発行日 1945年9月5日
発行元 朝日新聞社
ジャンル 小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 B6版
ページ数 162
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1945年(昭和20年)9月5日朝日新聞社より刊行された。初版発行部数は10,000部、定価は2円80銭だった[1]。作品名「惜別」は、藤野先生が渡した写真の裏書きに由来する(魯迅の人物・経歴の項参照)。

執筆時期・背景編集

1943年(昭和18年)11月5、6日に行われた大東亜会議において「大東亜共同宣言」が採決される。日本文学報国会は同宣言の五原則を主題とする文学作品化を図り、翌1944年(昭和19年)1月、太宰治を含む執筆希望者約50名による協議会を開く[注 1]

同年2月頃、太宰は「『惜別』の意図」と題する5枚半の文章を執筆して提出。小田嶽夫の助力によって『魯迅伝』『大魯迅全集』『東亜文化圏』などを入手し『惜別』執筆の準備を進めていった[3]。12月、依嘱作家(小説部門が6名、戯曲部門が5名)が正式に決定される[注 2]。12月20日、仙台医専在学当時の魯迅について調査するため、仙台に向かう。12月25日帰宅。

1945年(昭和20年)、年明け早々から書き始め、2月末に『惜別』237枚は完成した[5][注 3]

あらすじ編集

備考編集

  • 東北大学医学部前身の仙台医専に留学していた頃の魯迅を、東北の一老医師であり、当時の魯迅の親友が語るという設定で、藤野先生・私・周君(魯迅の本名)らの純粋な対人関係を描いた。作中で魯迅の語る偽善や革命運動家への疑問などを通して太宰自身の思想が色濃く反映されており、伝記としての魯迅伝とは若干異なる作品となっている。
  • 「中国の人を賤しめず、軽妙に煽てる事もせず、独立親和の態度で臨んだ。日支(日中)全面和平に効力を与えたい。」という意図の政治的発言を太宰にしては珍しくしている。短編小説「竹青」(『文藝』1945年4月1日号収録)の末尾にも「竹青はシナ(中国)の人達に読んで貰いたくて書いた」とあるように、太宰は戦争末期、対等な日中和平を真に望んでいた作家であったとも言える。
  • 他の太宰作品とは大きく異なる傾向にあるこの作品に、熱烈な太宰ファンだった竹内好武田泰淳鶴見俊輔といった作家らは失望を表した[要出典]。竹内や武田は東京大学支那文学科に籍を置いていたこともあり(武田は中退)、中国文学に独自の愛着を感じていたためだとも考えられる。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 2月3日に行われたという記述もある。作家の伊藤佐喜雄は2月3日に開かれた会について次のように書き記している。「日本文学報告会が『大東亜宣言』の小説化を企てたことがある。その説明会が行われるというので、定刻ごろ会場へいってみると、すでに大勢の作家たちが会場に詰めかけていたが、(中略) 窮屈そうに腰かけていた太宰治が、『伊藤君、ここが空いているよ』と、彼にはめずらしいくらいの大声で呼んで、手招きした。(中略) 結局、その日出席した五十人ほどの作家が、筋書を提出して、その中から五人が選ばれるということになった。私も筋書を提出したが、選ばれなかった。太宰は選ばれて『惜別』という小説を書いた」[2]
  2. ^ 依嘱作家の内訳は以下のとおり。第1部(小説)は大江賢次高見順、太宰治、豊田三郎、北町一郎、大下宇陀児の6名。第2部(戯曲)は関口次郎、中野実八木隆一郎久保田万太郎森本薫の5名[4]
  3. ^ 国策小説として執筆されたものであるが、本書のあとがきで太宰はこう書き記している。「最後に、どうしても附け加へさせていただきたいのは、この仕事はあくまでも太宰といふ日本の一作家の責任に於いて、自由に書きしたためられたもので、情報局も報國會も、私の執筆を拘束するやうなややこしい注意など一言もおつしやらなかつたといふ一事である。しかも、私がこれを書き上げて、お役所に提出して、それがそのまま、一字半句の訂正も無く通過した」

出典編集

  1. ^ 『太宰治全集 8』筑摩書房、1998年11月24日、445-446頁。解題(関井光男)より。
  2. ^ 伊藤佐喜雄 『日本浪漫派(潮選書63)』潮出版社、1971年4月25日。
  3. ^ 『太宰治全集 第7巻』筑摩書房、1990年6月27日、426頁、431頁。解題(山内祥史)より。
  4. ^ 『太宰治全集 第7巻』筑摩書房、1990年6月27日、432-433頁。解題(山内祥史)より。
  5. ^ 津島美知子 『回想の太宰治』人文書院、1978年5月20日。

外部リンク編集