愛新覚羅氏

姓 (ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ)

愛新覚羅氏(アイシンギョロし、あいしんかくらし、満洲語ᠠᡳᠰᡳᠨ
ᡤᡳᠣᡵᠣ
、ラテン文字転写:Aisin Gioro)は、満洲(中国東北部)に存在した建州女真族(満洲民族)の姓氏で、清朝を打ち立てた後に中華を統一した家系。清の国姓である。アイシン(ᠠᡳᠰᡳᠨ)は「」という意味の、かつて女真族が興した王朝名であり、そして後にヌルハチが興した王朝からとった族名(ムクン)、ギョロ(ᡤᡳᠣᡵᠣ)はヌルハチの祖先が最初に定住した土地(現在の黒竜江省依蘭県一帯)の名を戴いた姓氏(ハラ)で、全体で「金の覚羅一族」を表す。漢字は満洲語読みに対する当て字であり意味は持っていない。

愛新覚羅氏
アイシンギョロ氏
愛新覺羅氏
AisinGioro.png
帝室
Chinese Dragon Banner.svg  Seal of Qing dynasty.svg
Flag of China (1889–1912).svg
満洲国の旗 満洲国
主家 覚羅氏
当主称号 清朝皇帝
中華皇帝
・満洲族のハン
・モンゴルの大ハーン
・チベットの文殊皇帝
イスラムの守護者
満州国皇帝
当主敬称 陛下天子
創設 1616年2月17日
家祖 モンティムール
最後の当主 宣統帝/康徳帝(王家としての滅亡)
現当主 金毓嶂[1](第14代)
滅亡 1912年2月12日辛亥革命によって滅亡)
1945年8月18日満洲国の滅亡)
民族 女真
満州民族
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愛新覚羅氏
中国語
繁体字 愛新覺羅
簡体字 爱新觉罗
発音記号
標準中国語
漢語拼音Àixīn juéluó
満洲語
満洲文字 ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ AisinGioro.png
最後の皇帝・宣統帝(右)

ヌルハチが後金を建国してから清朝最後の皇帝溥儀が退位し清朝が滅亡するまで、後金清朝を合わせ296年間存在し、12代の皇帝がいた。

清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「」姓に取り替えた。

概略編集

ヌルハチは当初は単にギョロ姓を称していたが後金皇帝となったため、その血統を特別に形容して「アイシンギョロ」と呼ぶことにした。16世紀後半は愛新覚羅氏はまだ少人数の家族であり、後に六祖とされるヌルハチの祖父とその5人の兄弟(祖父:ギオチャンガ、叔父:デシク、リウダン、ソーチャンガ、ボォランガ、ボーシ)と彼の22人の息子からなった。清朝ではヌルハチの祖父以上の家系のものは「覚羅(ギョロ)」とし、ヌルハチの父顕祖以下の子孫は「宗室」とされた。清朝皇族の系図は『玉牒』に収められている。  

清朝皇族の爵位編集

  • 和碩親王(ᡥᠣᡧᠣᡳ
    ᠴᡳᠨ
    ᠸᠠᠩ
    , hošoi cin wang、ホショイ・チン・ワン、ホショしんのう)
  • 世子(ᡧᡳᡯᡳ, šidzi、スィズィ、親王の嗣子)
  • 多羅郡王(ᡩᠣᡵᠣᡳ
    ᡤᡳᠶᡡᠨ
    ᠸᠠᠩ
    doroi giyūn wang、ドロイ・ギュン・ワン、ドロぐんおう)
  • 長子(ᠵᠠᠩᡯᡳ, jangdzi、ジャンズィ、郡王の嗣子)
  • 多羅貝勒(ᡩᠣᡵᠣᡳ
    ᠪᡝᡳᠯᡝ
    doroi beile、ドロイ・ベイレ)
  • 固山貝子(ᡤᡡᠰᠠᡳ
    ᠪᡝᡳᠯᡝ
    , gūsai beise、グサイ・ベイセ)
  • 鎮国公(ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠪᡝ
    ᡩᠠᠯᡳᡵᡝ
    ᡤᡠᠩ
    , gurun be dalire gung、グルン・ベ・ダリレ・グン)
  • 輔国公(ᡤᡠᡵᡠᠨ ᡩᡝ
    ᠠᡳᠰᡳᠯᠠᡵᠠ
    ᡤᡠᠩ
    , gurun de aisilara gung、グルン・デ・アイシララ・グン)
  • 不入八分鎮国公(ᠵᠠᡴᡡᠨ
    ᡠᠪᡠ ᡩᡝ
    ᡩᠣᠰᡳᠮᠪᡠᡥᠠᡴᡡ
    ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠪᡝ
    ᡩᠠᠯᡳᡵᡝ
    ᡤᡠᠩ
    , jakūn ubu de dosimbuhaku gurun be dalire gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・ベ・ダリレ・グン)
  • 不入八分輔国公(ᠵᠠᡴᡡᠨ
    ᡠᠪᡠ ᡩᡝ
    ᡩᠣᠰᡳᠮᠪᡠᡥᠠᡴᡡ
    ᡤᡠᡵᡠᠨ ᡩᡝ
    ᠠᡳᠰᡳᠯᠠᡵᠠ
    ᡤᡠᠩ
    , jakūn ubu de dosimbuhaku gurun de aisilara gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・デ・アイシララ・グン)
  • 鎮国将軍(ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠪᡝ
    ᡩᠠᠯᡳᡵᡝ
    ᠵᠠᠩᡤᡳᠨ
    , gurun be dalire janggin、グルン・ベ・ダリレ・ジャンギン)
  • 輔国将軍(ᡤᡠᡵᡠᠨ ᡩᡝ
    ᠠᡳᠰᡳᠯᠠᡵᠠ
    ᠵᠠᠩᡤᡳᠨ
    , gurun de aisilara janggin、グルン・デ・アイシララ・ジャンギン)
  • 奉国将軍(ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠪᡝ
    ᡨᡠᠸᠠᡴᡳᠶᠠᡵᠠ
    ᠵᠠᠩᡤᡳᠨ
    , gurun be tuwakiyara janggin、グルン・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン)
  • 奉恩将軍(ᡴᡝᠰᡳ ᠪᡝ
    ᡨᡠᠸᠠᡴᡳᠶᠠᡵᠠ
    ᠵᠠᠩᡤᡳᠨ
    , kesi be tuwakiyara janggin、ケシ・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン)

清朝皇族の爵位は通常1代ごとに降下する。特に功績がなければ親王の子は郡王、郡王の子は貝勒というように爵位が下がっていく。しかし、特に功績が大きかった皇族は世襲が認められ、爵位が降下しないことから鉄帽子王中国語版と呼ばれた。

  • 礼親王(doronggo cin wang)家 - ヌルハチの第2子・ダイシャン(代善)が祖。
  • 睿親王(mergen cin wang)家 - ヌルハチの第14子・ドルゴン(多爾袞)が祖。
  • 豫親王(erke cin wang)家 - ヌルハチの第15子・ドド(多鐸)が祖。
  • 粛親王(fafungga cin wang)家 - ホンタイジの長子・ホーゲ(豪格)が祖。清末に善耆川島芳子父娘が出る。
  • 承沢親王(kesingge cin wang)家 - ホンタイジの第5子・ショセ(碩塞)が祖。後に荘親王家と改称。
  • 鄭親王(ujen cin wang)家 - ヌルハチの弟シュルガチの子・ジルガラン(済爾哈朗)が祖。西太后の政敵粛順、鄭親王端華兄弟が出る。
  • 克勤郡王(kicehe giyūn wang)家 - 代善の長子ヨト(岳託)が祖。
  • 順承郡王(dahashūn giyūn wang)家 - 代善の子サハリャン(薩哈璘)の第2子勒克徳渾が祖。

これらの8家は建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。睿親王家はドルゴンが皇位を簒奪しようとしたとして廃絶されていたが、乾隆年間にドルゴンが名誉回復したために再興された。ドルゴンに連座して同母弟ドドも郡王に落とされていたが、同様に乾隆年間の名誉回復により親王家に戻された。

清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。

著名人編集

歴代当主編集

愛新覚羅氏には長子相続や自動的な継承法などが存在せず、その代わりとして生前の皇帝が後継者の名を書いた勅書を封印し、死後に家族の前で読み上げられる太子密建と言われる方法で相続していた。[4]1912年に共和制が宣言され、清朝は滅亡した。最後の皇帝である溥儀は、紫禁城で皇帝の称号を維持する権利を与えられていたが、1924年に清室優待条件が取り消され追放された。その後は長春へ赴き、日本の傀儡国家の満州国の執政(1932–1934年)として就任し、後に満州国皇帝(1934–1945年)に即位した。

愛新覚羅家当主
治世 元号名 注釈
建州女直の部族長
1571–1583年 塔克世(タクシ 宣皇帝 (諡号) 初代当主
ギオチャンガの息子、ヌルハチの父。
1583-1616年 努爾哈赤(ヌルハチ タクシの息子。1588年に建州女直を統一。
金朝のハン
1616–1626年 努爾哈赤(ヌルハチ) 天命帝 愛新覚羅家の創始者
1626–1636年 皇太極(ホンタイジ 天聡帝 ヌルハチの第八子。
清朝の皇帝
1636–1643年 皇太極(ホンタイジ 崇德帝 1636年の国号を金から清へと改号後の最初の皇帝。
1644–1661年 福臨(フリン) 順治帝 初めて北京に居を構える。ホンタイジの第九子。
1661–1722年 玄燁(ヒョワンイエイ) 康熙帝 在位最長。順治帝の第三子。
1723–1735年 胤禛(インジェン) 雍正帝 康熙帝の第四子。
1736–1796年 弘暦(フンリ) 乾隆帝 雍正帝の第四子。
1796–1820年 顒琰(ヨンヤン) 嘉慶帝 乾隆帝の第十五子。
1821–1850年 旻寧(ミンニン) 道光帝 嘉慶帝の第二子。
1851–1861年 奕詝(イジュ) 咸豊帝 道光帝の第四子。
1862–1875年 載淳(ヅァイシュン) 同治帝 咸豊帝の長子。
1875–1908年 載湉(ヅァイティヤン) 光緒帝 醇親王奕譞の第二子。
1908–1912年および1917年 溥儀(プーイー) 宣統帝 醇親王載灃の長子。
1912年以後の当主
1912-1967 溥儀(プーイー) 1912年に皇帝を退位する。
1924年に紫禁城から追放される。
1934年から1945年まで満州国皇帝に即位する。
1967–1994 溥傑(プギェ)[5] 溥儀の弟
1994–2015 溥任(プレン) 溥儀の異母弟
2015-現在 金毓嶂(ジン・ユージャン)[1] 溥任の長子

脚注編集

  1. ^ a b Spencer, Richard (2008年11月30日). “The Chinese man who would be emperor”. The Daily Telegraph. 2016年6月4日閲覧。
    McDonald, Hamish (2004年11月27日). “Heir to China's throne celebrates a modest life”. The Age. 2016年6月4日閲覧。
    “Just call me Jin, says the man who would be emperor”. Sydney Morning Herald. (2004年11月27日). https://www.smh.com.au/world/just-call-me-jin-says-the-man-who-would-be-emperor-20041127-gdk78h.html 2021年2月3日閲覧。 
  2. ^ 安田峰俊 (2021年8月23日). “「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生””. 文春オンライン. 株式会社文藝春秋. 2021年11月15日閲覧。
  3. ^ YUHANプロフィール | 愛新覚羅ゆうはん(YUHAN)
  4. ^ Woo, Tshung-zhu, "The Rule of Succession to the Throne in China", 9 Chinese Soc. & Pol. Sci. Rev. 626 (1925).
  5. ^ 溥儀の相続人として、溥傑は広く認められていた:
    • Schmetzer, Uli, "Emperor-in-waiting recalls bygone age", Chicago Tribune, Oct. 25, 1992. "The heir to China`s throne [Pujie] lives in an old house with a courtyard in which the last chrysanthemums of fall sprout amid a heap of coal briquettes collected for the winter."
    • "Pu Jie, 87, Dies, Ending Dynasty of the Manchus", New York Times, March 2, 1994. "If Japan had won the war, Pu Jie could have become Emperor of China."
    • Song, Yuwu, Biographical Dictionary of the People’s Republic of China, 2014, McFarland and Co., p. 6. "The younger brother of Pu Yi (the Emperor Xuantong) Pu Jie was technically head of the Imperial Qing Dynasty from the death of his brother in 1967 until his own death in 1994."

関連項目編集