斉藤巻石

1798-1874, 江戸時代後期の南画家、大網元

斉藤 巻石[注釈 1](さいとう けんせき、寛政10年(1798年[1] - 明治7年(1874年5月)は、江戸時代後期の南画家・大網元。名は源作[1]に巻石・南乙・挙石・白湾漁長・兎山清農・大洋庵主人・拱寿庵主など[1]上総国山辺郡四天木村(現・千葉県大網白里市)の生まれ。

略歴

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九十九里浜の大網元・斉藤四郎右衛門の次男として生まれる[1]。当時、漁が盛んで多くは干鰯に加工され、関西方面で農産物の肥料として需要が高かった[1]。このため大網元・斉藤家には巨万の富がもたらされていた[1]

14歳の時に一宮の中村家の養子となる[1]。このときの様子は「白馬銀鞍に跨がり。供の物数百人を従えた行列」と語り継がれるほどだった[1]。しかし、兄が早世したため、養家を辞して実家の家督を継ぐ[1]。兄の遺児滄海の養父となり、28歳で滄海に家督を譲り隠居する[1]。隠居後は本家のある四天木宮脇から離れた海岸に「大洋庵」を建て書画三昧に暮らす[1]

当時、九十九里浜には多くの文人墨客が遊歴しており、巻石の大洋庵にも梁川星巌紅蘭夫妻が滞在したほか[1]椿椿山高久靄厓福田半香高隆古岡本秋暉山本梅逸木下逸雲瀧和亭栗本鴻堂など著名な画人が訪れた[1]

天保13年(1842年)44歳の時に足利を遊歴し[1]、その足で椿椿山に入門[1]。64歳から2年あまり越後で過ごし[1]、一時は上野付近に家を構えたが[1]、すぐに四天木村に戻る[1]。文久2年(1862年)、拱寿庵と群蛙亭屋を築き[1]、自らを遊歴人と称して諸国を遊歴しつつ文雅に暮らした[1]

明治7年(1874年)5月、書状「書置之事」を遺して死去[1]。享年76歳[1]

瀧和亭が描いた巻石唯一の肖像画は関東大震災で焼失した[1]

作品

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参考文献

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  • 図録「町史を彩る巨匠たち」大網白里町教育委員会 平成12年(2000年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 斎藤拳石と記述された文献があるが、巻石を読み誤ったためと思われる。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 大網白里市を知る 町史を彩る巨匠たち|土豪の網元画家 斎藤巻石| 大網白里市/大網白里市デジタル博物館”. adeac.jp. TRC-ADEAC株式会社. 2022年10月21日閲覧。