斎藤 就幸(さいとう なりゆき)は、江戸時代初期の武士毛利氏家臣で長州藩士。知行は200石。父は斎藤就実

 
斎藤就幸
時代 江戸時代初期
生誕 元和6年(1620年
死没 宝永4年8月4日1707年8月30日
別名 通称:市十郎→孫市→又兵衛尉、玄允
主君 毛利秀就綱広吉就吉広
長州藩
氏族 斎藤氏
父母 父:斎藤就実
真利
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生涯 編集

元和6年(1620年)、長州藩士・斎藤就実の嫡男として生まれたが、寛永4年(1627年12月4日に父・就実が死去。寛永6年(1629年)閏2月13日毛利秀就加冠状を受けて元服し、「就」の偏諱を与えられて、「就幸」と名乗った。

寛永9年(1632年9月13日、毛利秀就は就幸の祖父・斎藤元助の当知行200石の地について、就幸が18歳になるまでは斎藤就豊が代役を務め、就幸が18歳になった時に200石を渡すように命じた。また、就豊の扶持方切銭については、元助の隠居分を与える事とされた。寛永16年(1639年3月1日には秀就から「又兵衛尉」の百官名を与えられている。

その後、秀就、綱広吉就吉広に仕え、宝永4年(1707年8月4日に死去。享年88。子の真利が後を継いだ。

参考文献 編集