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新庄二塚古墳(しんじょうふたづかこふん)は、奈良県葛城市(旧北葛城郡新庄町)にある古墳で、1978年昭和53年)国の史跡に指定されている。1つの古墳で3つの異なった形式の横穴式石室を有するという特徴で知られており、銭取塚とも呼ばれている。

新庄二塚古墳
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二塚古墳 後円部
所在地 奈良県葛城市寺口
位置 北緯34度29分14秒
東経135度42分2秒
形状 前方後円墳 古墳記号アイコン-前方後円墳.svg
規模 全長60m
埋葬施設 横穴式石室3箇所
出土品 金銅花形座金具、馬具農耕具、須恵器、土師器ほか
築造時期 6世紀中
史跡 国の史跡(1978年12月27日指定)
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目次

概要編集

丘陵の尾根の先端を分断して造られた前方後円墳である。葛城山の山麓の標高約200メートルの場所に位置しており、東に大和盆地を一望することができる。

墳丘は二段構築で全長は60メートル、後円部の直径は36メートルで高さは10メートル、前方部幅約41メートル、高さや10メートル、くびれ部西側に造り出し部がある。後方部の高さも10メートルを越えており、円墳を二つ繋げたようなずんぐりとした形となっているが、これは後方部にも石室をつくるために盛り土をしたためである。埴輪は認められないが要所に葺石が施されている。明確な周濠は無いが古墳の西は約10メートルほどの幅で平らに整地されており、東側の一段低くなった田も墓域を示す空濠の跡と考えられている[1]

後円部の横穴式石室は古くから開口しており存在が知られていたが、1958年(昭和33年)の発掘調査で後方部と西側の造り出し部分にも横穴式石室があることが判明した。出土品は奈良国立博物館が収蔵している。

出土品などの分析から、築造時期は古墳時代後期の6世紀前半から中ごろとみられている。

埋葬施設編集

埋葬施設は後円部、前方部、造り出し部の三カ所に横穴式石室が設けられている。

後円部石室
石室は両袖式で全長は16.7メートル、玄室の長さは6.73メートル、幅2.98メートル、高さ4.1メートルで、南に開口している。羨道部分には排水溝がつくられている。羨道長さ約9.68メートル、幅約4.1メートル、高さ約1.5メートル、自然石を積み上げている。凝灰岩石棺が置かれていたとみられているが、すでに破壊されており詳細は不明である。古くから開口していたが、発掘調査で金銅花形座金具、馬具、鉄製武器、農耕具類が出土している[2]
前方部石室
石室は片袖式で全長は9メートル、玄室は長さ3.9メートル、幅1.7メートル、高さ1.9メートルで、凝灰岩でつくられた組合せ式石棺の底の部分のみが残っている。馬具、農耕具、金・銀製中空玉が出土している[2]
造り出し部石室
造り出し部の石室は朝鮮半島の一部で見られる特殊な形式である[3]。石室は無袖式で全長は7.82メートル、玄室は長さ4.48メートル、幅1.35メートル、高さ1.26メートルである。玄室が羨道部分より一段低く(約0.9メートル)つくられているという特異な形式である。
発掘調査の結果、後円部の石室から金銅製花形座金具、水晶製三輪玉、鉄製鋤先、ガラス玉、梯形鉄製品、鉄製武器、前方部石室から鉄鋤、鉄斧、鉄製馬具、金製空玉(うつろだま)、銀製空玉、須恵器土師器、造り出し部の石室から琥珀製棗玉(こはくせいなつめだま)、直刀、刀子、馬具、鉄、鉄、鉄、鉄、大量の須恵器が出土している。盗掘を受けていなかったため、これらの総数118点にもおよぶ副葬品が石室内に所狭しと並べられた状態で検出され、そのため副葬品埋葬のための石室ではないかとの説も出されたが、遺物の間に2メートルあまりの空間があることから、ここに木棺が安置されていたと考えられている[1]

周辺遺跡・施設編集

参考書籍編集

脚注編集

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  1. ^ a b 泉森皎『大和の古墳を語る』(臨川書店 1993年) p213
  2. ^ a b 新庄町教育委員会設置の現地案内版による。
  3. ^ 新庄町歴史民俗資料館 常設展示図録 p13

関連項目編集

外部リンク編集