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日向灘地震 (1498年)

1498年日向灘地震(せんよんひゃくきゅうじゅうはちねん ひゅうがなだじしん)は、グレゴリオ暦1498年7月9日明応7年6月11日ユリウス暦1498年6月30日)に発生したと思われる地震である。1498年日向地震とも呼ばれる。また、この地震を指して単に日向灘地震(日向地震)と呼ぶ場合もある。その後の研究により6月11日の地震は日向灘地震であった可能性が否定されるとされている。

日向灘地震
日向灘地震 (1498年)の位置(日本内)
日向灘地震 (1498年)
本震
発生日 1498年7月9日 (JST)
震央 日本の旗 日本 大分県佐伯市
北緯33.0度
東経132.25度
規模    マグニチュード (M)7.0 -7.5
津波 有り
地震の種類 海溝型地震
被害
死傷者数 死者多数
出典:特に注記がない場合は『理科年表 平成20年』による。
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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目次

概要編集

震源地は現在の大分県佐伯市沖で、マグニチュードは7.0-7.5と推定される。

『九州軍記』によれば刻(6時頃)から地震が起り、刻(10時頃)に大地震があって災害は全国に及んだという。九州で山崩れがあり、別府の延内寺では爆発が発生、寺院は住職もろとも吹き飛び、地が裂けて熱泥が噴出、現在の坊主地獄ができたという。 そのほか各地で山崩れが発生、鳥居・石碑は過半倒れ、死者多数と伝えられている。伊予でも土地の陥没[1]など地変が見られた。

同日の刻(15時頃)に京都奈良熊野三河甲斐でも強震であったという。遠江で山崩れ、紀伊や三河で津波が起ったともされる[2]

南海道沖地震の可能性編集

同日に発生したとされる畿内東海地方における強震や津波の記録が今回の地震と同一地震ならば、さらに規模の大きい地震と見られ、震源域の変更が必要ともされている。また、同日には中国においても上海での津波や揚子江での水面の震動し氾濫するなどの現象が観測されており、同様の現象は宝永地震安政南海地震でも観測されていることから、この地震は南海道沖の地震であった可能性も指摘されている[3][4]。この、2ヵ月半後の9月20日(明応7年8月25日)に発生した、東海道沖の地震と推定される明応地震と対をなす南海道沖の地震の可能性があるとされる[5]

一方で、本地震を南海道沖の地震とする説には史料の無理な解釈が含まれ、上海の水面の震動のような現象は1854年安政南海地震の2日後に起った豊予海峡地震でも記録にあり、例えば『九州軍記』の記述を話半分に聞けば、九州付近で起こったフィリピン海プレート内のスラブ地震を仮定しても畿内付近に大きな揺れをもたらすことは考えられるともされている[6]

存在への疑義編集

東京大学地震研究所の原田智也は、この地震を記した唯一の記録『九州軍記』が地震の発生から100年以上経過して書かれたものであり、記述内容を検討すると、この日向灘の地震が創作である可能性が高いと推定している[7]。6月11日の地震で確かな記録は『御湯殿上日記』などに記述された京都や奈良などの記事のみとなる。

以下がその根拠である[8]

  1. 『九州軍記』には、僧了圓による慶長十二年(1607年)四月と記された序がある。序によると、軍記は肥前国草野村において、烏笑軒常念(文禄四年(1595年)没)、草野入道玄厚によって書き継がれ、慶長六年(1601年)に完成した。また、軍記完成から約250年後の史料であるが『橘山遺事』によると、了圓も軍記の修正と補筆を行っていたようだ。よって、玄厚(と了圓)は、文禄五年(1596年)の慶長豊後地震を近くで体験していると考えられ、その体験や情報が軍記の創作に影響した可能性が考えられる。
  2. 明応七年六月十一日の地震の記述がある章は、明応七年に終わる章と永正二年(1505年)から始まる章との間にあり、文亀三年(1503年)の飢饉と、応仁の乱以降の戦乱と度重なる災害による民衆の苦しみが記述されており、後に続く物語の舞台設定の性格が強い。また、この章には、過去の大地震が列挙されているが、このことから作者が過去の大地震を調べることができたことが分かる。よって、明応七年六月十一日の地震も、年代記等から調べられたと考えられる。したがって、地震や飢饉がその後の物語を盛り上げるために利用されており、地震による九州の大被害も創作である可能性が高い。
  3. 地震被害の記述には、具体的な地名が無く、大地震による一般的な被害の描写である印象を受ける。また、この地震記述と酷似した記述が、『九州軍記』より前に成立した『太平記』や『平家物語』といった軍記物語にみられる。さらに、軍記には、この地震が巳刻に発生したと記述されているが、この時刻は、明応七年八月廿五日(ユリウス暦1498年9月11日)の明応東海地震の発生時刻である辰刻に近い。実際、同時代史料である『親長卿記』や『塔寺八幡宮長帳』では、明応東海地震の発生時刻を巳刻と記している。したがって、軍記の作者が、明応東海地震と六月十一日の地震を混同していた、あるいは、混同して記された文献に基づいて、六月十一日の地震とその被害を描写した可能性がある。そう考えると、同じく軍記に記された「今度ノ地震ハ九国ノミニ不限、四国・中国・畿内・東海・北国・奥州ノ果迄モ残ル所ナシ、」という記述も、それほど不自然ではなくなる。

脚注編集

  1. ^ 高橋治郎 四国の斜面災害史 愛媛大学教育学部紀要. 第III部, 自然科学. vol.20, no.2,p.11-26
  2. ^ 都司嘉宣(1981):明応地震の津波は和歌山をおそった -東海沖巨大地震の歴史をさぐる(話題), 科学51(5), p329-333.
  3. ^ 都司嘉宣、上田和枝(1997): 明応(1498)南海地震の存在とその日付について, 地球惑星科学関連学会1997年合同大会講演予稿集, 169.
  4. ^ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店
  5. ^ [1] 都司嘉宣「2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓」東京大学地震研究所
  6. ^ 石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会 』岩波出版、2014年
  7. ^ 瀬川茂子 (2017年8月21日). “室町時代の日向灘地震「なかった」 東大研究者ら指摘”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/articles/ASK8H5SMDK8HPLZU001.html 2017年8月21日閲覧。 
  8. ^ 原田智也 (2016年3月31日). “東京大学地震研究所 地震活動セミナー 第79回「明応七年六月十一日(ユリウス暦1498年6月30日)の日向灘地震は実在したか?」”. 東京大学地震研究所. 2017年8月21日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集