日尊(にちぞん、1265年文永2年) - 1345年6月8日興国6年/康永4年5月8日))は、鎌倉時代日興門流[3]。太夫阿闍梨と称する。京都要法寺の開山。日蓮本宗の祖。

日尊
1265年 - 1345年
太夫阿闍梨
生地 陸奥国
没地 山城国
宗派 日蓮本宗日蓮宗日蓮正宗
寺院 要法寺
日興[1]
弟子 日大・日印[2]
実報寺
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概要編集

重須談所〔北山本門寺〕境内には、日尊上人腰掛石がある。日興は重須談所で弟子の育成に努めたが、1299年正安元年)秋、講義の最中に窓の外を舞い落ちる梨の葉に気をとられた日尊を破門にした。破門された日尊は一念発起し、諸国を巡り36箇寺を建立したと伝えられている。破門されてもなお毎年、重須談所のお会式には必ず参詣に来た。しかし本堂に入ることは許されないため、人知れず門の外の石に腰掛て参詣した。後、日興に破門を許されて36幅の曼荼羅を授与され、日目に仕えた[要出典]。日興の滅後、日目の天奏に付き従い、日目の遺志を継いで天奏を行った。その後、京都方面で布教を行った。

略歴編集

  • 1265年文永2年)、日尊生まる。幼少にて天台僧として出家す。
  • 1283年弘安6年)、奥州三迫六町目の地頭所で日目の教化にあい改衣する〔19歳〕[4]
  • 1284年(弘安7年)、日興に師事する[1]
  • 1290年(正応3年)、大石寺創建と同時に塔中・久成坊を開く。
  • 1299年正安1年)、重須にて日興より勘当される[5]
  • 1308年延慶1年)、日尊は諸国を遊行し、京都山城に法華堂(後の要法寺)を開いた。
  • 1311年応長1年)、勘当を解かれる[2]
  • 1333年正慶2年/元弘3年)春、日尊は日郷と日目に随って天奏(天皇に仏法を説くこと)にのぞむ。その途中、美濃の垂井で日目が死去するも、その意志を継いで入洛した[2]
  • 1334年(正慶3年/建武1年)春、日尊は後醍醐天皇に天奏を行った。その功績によって京都の朝廷より六角油小路に寺地を寄進される。
  • 1338年暦応1年)、再び入洛[2]
  • 1339年暦応2年)、六角油小路に上行院を創し、日興門流の京都基盤を確立する[2]
  • 1344年康永3年)10月13日、日尊は会津実成寺から弟子の日印を招いて上行院を授けた[6]
  • 1345年(康永4年)5月8日、京六角上行院開基〔京要法寺4代〕太夫阿日尊寂(81歳)[6]

建立した他の寺院編集

脚注編集

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出典編集

  1. ^ a b 宮崎英修 1978, p. 195a.
  2. ^ a b c d e 宮崎英修 1978, p. 196a.
  3. ^ 宮崎英修 1978, pp. 195-196a-但し、死亡月日は除く。
  4. ^ 宮崎英修 1978, p. 195b-但し、場所を除く
  5. ^ 宮崎英修 1978, pp. 195-196b-但し、場所は除く。
  6. ^ a b 宮崎英修 1978, p. 196b-但し、日付は除く。

参考文献編集

  • 『日蓮辞典』宮崎英修東京堂出版、1978年7月10日。ISBN 978-4490101096NCID BN00793610OCLC 5182140

関連項目編集