早川千吉郎
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。
経歴
編集石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。
明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ[1]、死去するまで在任した[2]。加越能(石川・富山県)出身者のための東京の寄宿舎「久徴館」の館長を長く務めたほか、1916年には、地方改良運動の実施機関として設立された半官半民の教化団体「中央報徳会」に青年部を創設し、理事長を務めるなど青年教育にも尽力した[3]。
大正10年(1921年)5月、南満洲鉄道株式会社社長に就任し、論稿「日支共存共栄」を雑誌『斯民』第17編第1号に発表[3]。在職中の大正11年(1922年)10月、奉天高等小学校で演説中に突然卒倒し[4]、死去。墓所は鶴見区總持寺。
自宅のあった東京・二番町の土地は、その後日本テレビの本社になった。
栄典
編集親族
編集- 父の早川忠恕は石川県士族[7]。
- 弟の外吉は湯浅七左衛門商店(現・ユアサ商事)に婿入りして七左衛門を襲名し、湯浅蓄電池製造(現・ジーエス・ユアサコーポレーション)を創業[8]。
- 義弟(妹たちの夫)に井上友一、男爵山沢幾太郎(山沢静吾の長男[9])。
- 妻の里子(1875年生まれ)は金沢市御歩町出身で、17歳で結婚[10]。
- 長男・忠吉(1898年生まれ)は東京帝国大学法学部政治科卒業後大蔵省に入り、妻・増子(宅孝二の姉)とともに2年間英国遊学ののち、三井信託に入行するも30代で退職、盆栽愛好家としても知られた[7][11][12]。初台の2000坪の豪邸に暮らし、金策を頼みに行った中西悟堂は忠吉の桁違いの金銭感覚に「こいつ、どこまで無駄な金を持ってるんだろうか」と驚いたという[13]。
- 次男白井泰次は白井家の養子となり、中小企業金融公庫融資部長[14]。
- 三男の白井浩司は慶應大学教授となった[14]。
脚注
編集- ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、30頁。
- ^ a b 財閥経営者とキリスト教社会事業家 II 瀬岡誠、国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告、1983年
- ^ 『会員追悼録』p51日本工業倶楽部, 1925
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ a b 早川千吉郞『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 湯浅七左衛門『人事興信録. 第11版(昭和12年) 下』
- ^ 山澤幾太郞『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 早川里子『日本婦人の鑑』 (婦人評論社, 1935)
- ^ 早川忠吉『人事興信録. 第11版(昭和12年) 下』
- ^ 『現代一流盆栽名木写真集』博文館、1937、p179
- ^ 『中西悟堂―かみなりさま (人間の記録 (11))』日本図書センター (1997/2/25)、p283-284
- ^ a b 『現代財界家系譜』 第1巻、現代名士家系譜刊行会、1968、p523