昭和のいる・こいる

昭和のいる・こいる(しょうわのいる・こいる)は漫才協会落語協会所属の漫才コンビである。略称は「のいこい」。五代目鈴々舎馬風ファミリー。

昭和しょうわのいる・こいる
メンバー 昭和のいる
昭和こいる
結成年 1966年
事務所 漫才協会
落語協会
師匠 獅子てんや・瀬戸わんや
五代目鈴々舎馬風
旧コンビ名 花園のいる・こいる
獅子のびる・瀬戸こえる
現在の活動状況 事実上解散
のいる∶病気療養
こいる∶死去
芸種 漫才
同期 コント55号
横山やすし西川きよし
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メンバー編集

昭和 のいる編集

昭和 のいる (1936-07-23) 1936年7月23日(86歳)[1]又は (1942-07-23) 1942年7月23日(80歳)[2] - )は、突っ込み担当。石川県石川郡吉野谷村(現:白山市)出身。本名は、岡田 弘(おかだ ひろし)。立ち位置は右側。実家は大工棟梁国士舘大学国文科卒業(大学入学前は地元で代用教員をしていた)。眼鏡を掛けている。

昭和 こいる編集

昭和 こいる1944年昭和19年〉1月26日 - 2021年令和3年〉12月30日)は、ボケ担当。群馬県伊勢崎市出身[3]。本名は、庄田 太一(しょうだ たいち)[3]。芸名は「昭和を乗り越える」という験を担いだもの[3]。立ち位置は左側。実家は裕福な化粧品雑貨を扱う小間物屋[3]。父母は大正時代広島県から群馬に来て商いを始め[3]、家では広島弁で話し、こいるも広島弁を喋れた[3]。幼少期の頃から歌が好きで小学2年の頃、NHKの「子供のど自慢」に出演歴あり[3]伊勢崎市立南小学校~南中学校~関東学園大学附属高等学校商業科を経て[3]日本大学文理学部[3]、二年時芸術学部転部後[3]、1966年中退[3](同期に井上大輔)。頭髪が少なくなったが、昔からリーゼント頭。漫才協会理事。以前は地元の伊勢崎市に「もしもし」という居酒屋を経営していたが面倒になって閉店。東京都北区王子3丁目で「スナックもしもし」を夫婦で経営していた。

2021年(令和3年)12月30日、前立腺がんのため、東京都内の病院で死去[4]。77歳没。亡くなる3年前からがんと闘病し、入退院を繰り返しながら高座に上がっており、生前最後の出演は同年11月28日、有楽町・よみうりホールで行われた「来年三月真打決定 鈴々舎八ゑ馬の会ファイナル」での漫談となった[5]。こいるは「最後の力を振り絞った。最後の漫才だろう」と関係者に話していたという[6]

来歴編集

1964年、学生時代のアルバイト先であった神奈川県川崎市歌声喫茶「エルサルバドル」で出会う[3]。二人はその店で司会進行を務め、やりとりが面白いということで漫才師の道を勧められる。程なくして獅子てんや・瀬戸わんやを紹介され師事、1966年(昭和41年)4月に「花園のいる・こいる」の名前でデビューを果たす。屋号の花園はアルバイトをしていた花園万頭に、のいる・こいるは「苦労を乗り越える」に由来。

当時は演芸ブームの真っ只中で、Wけんじの全盛期で東京漫才も上方に負けない勢いがあった頃である(同期はコント55号横山やすし西川きよし等)。

当初の芸名が「女性漫才によく間違われる(「のいる・こいる」→「のり子・こい子」と誤認される)」ということで、一時は師匠の名前をもらい「獅子のびる・瀬戸こえる」に改名。だが、のいるが急性肝炎となり「この名前は縁起が悪い」ということで、師匠たちと交友が厚かった三橋美智也の提案で現在の芸名に改名。

1975年(昭和50年)以降は賞レースにも参加し、ダークホースと注目される(当時は「三味線漫才」のさがみ三太・良太と「毒舌漫才」のツービートがライバルと見なされていた)。

1980年初頭の漫才ブームの波には乗れるような芸風ではなく[3]、三橋や二葉百合子の巡業に帯同する[3]

1984年(昭和59年)漫才協会真打ち昇進[3]

昇進後、(一部では評価はされつつも)これと言った人気も出ないままベテラン芸人となっていたが、1999年平成11年)、高田文夫の誘いで出演した[3]フジテレビの『初詣!爆笑ヒットパレード』を切っ掛けに突如大ブレイクを果たす[3]。出番は若手の海砂利水魚の次だったが[3]、舞台袖の西川きよしや高田文夫にも大ウケし、昭和のいる・こいるのファンだったという玉置浩二に曲を作ってもらいCDも出した[3]

2013年(平成25年)後半から、のいるの病気療養により、こいるがピンの漫談家として活動していた。さらにこいるは同じ馬風ファミリーで相方の療養という境遇であったあした順子としばしば組んで漫才で活動したこともあった(ひろしの死去により順子が事実上引退状態となったため、これ以降こいるは亡くなるまで漫談がメインとなっていた)。

芸風編集

  • のいるの話を、こいるが面倒臭さそうに無気力に受け流し、困惑するのいるに対し、捕まえ所の無いこいるは人を食った態度を続ける。こいるはネタ中、一貫して以下のように適当な相づちを打つ。
    • 「良かった良かった良かった良かった」
    • 「分かった分かった分かった分かった」
    • 「しょうがねしょうがねしょうがねしょうがね」(しょうがない)
    • 「はいはいはいはい」(「へいへいへいへいへい」「ほうほうほうほうほう」のパターンもある)
    • 「はいはいはいはい。そうだよな、そうだよな、しょーがねーやしょーがねーやしょーがねーや。ほーほーほーほー、まぁどっちでもいいや。関係ねー関係ねー関係ねー」

※こいるが「はいはいはいはい」と言いながら、頭を下げ、両手を顔の横に持っていき、上下に小刻みに振る、というお決まりのポーズを行う。 ※ネタの中盤以降に、こいるお得意の言動(上記)を、逆にのいるが行うこともある。それに対して、こいるがたじろぐ、こいるがやり返す、二人で応酬、などのパターンをみせる。

※こいるがひとしきりボケまくった後で、のいるが機転の利いたことを言い、逆にこいるが呆気に取られてネタが終了する。

  • 「民謡教室」。民謡を朗々と歌うのいるに対し、「分かっちゃいないな」とケチを付け、「僕は漫才界の原田直之と呼ばれている」と言いながら、こいるが取って代わると、何故か細切れ(「ー(伸ばす音)」をすべてハ行で発音する。【例】クーラー⇒クふラは)になって歌い出す。
  • こいるが頭にハンカチを乗せた状態でフランク永井の歌を歌い、のいるがハンカチを取ると高音で歌う。

備考編集

  • 女性ピン芸人の鳥居みゆきは中学生の時に彼らのネタを寄席で初めて見て感動したという。その時点で将来芸人になることは考えていなかったが、表現者になりたいと思わせてくれたコンビだと語っている[7]

受賞歴編集

  • 1976年(昭和51年) - NHK漫才コンクール最優秀賞。
  • 1977年(昭和52年) - 国立演芸場花形新人賞銀獅子賞。
  • 2001年(平成13年) - 浅草芸能大賞奨励賞。

CD・レコード編集

DVD編集

出演番組編集

映画出演編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 一般社団法人落語協会 芸人紹介
  2. ^ 一般社団法人漫才協会 所属芸人
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「新家の履歴書 昭和こいる」『週刊文春』2018年10月18日号、文芸春秋、102–105頁
  4. ^ “漫才師の昭和こいるさん、前立腺がんで死去 77歳”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2021年12月31日). https://www.asahi.com/articles/ASPDZ7X01PDZUCVL00D.html 2021年12月31日閲覧。 
  5. ^ 鈴々舎八ゑ馬【インフォメーション】(@reireisya_yaeba) (2021年12月31日). “昭和こいる先生。”. twitter. 2022年1月6日閲覧。
  6. ^ 昭和こいるさん 前立腺がんで死去 11月末まで舞台に「最後の力振り絞った」 - デイリースポーツ online 2021年12月30日
  7. ^ 2006年5月号「お笑いポポロ」(麻布台出版社

出典編集

  • 「東京漫才列伝」(東京新聞出版局)

外部リンク編集