朝比奈 知泉(あさひな ちせん、文久2年4月25日1862年5月23日〉 - 昭和14年〈1939年5月22日)は日本新聞記者、政論家。号は碌堂[1]、他に珂南・河水懶魚・不染盧主人などがある。

朝比奈知泉

経歴 編集

水戸藩士・朝比奈泰成の次男として、水戸に生まれる。一族が諸生党派であったため明治元年に絶家となり、祇園寺 (水戸市)に預けられた。“知泉”はこのとき祇園寺の金牛和尚に名付けられた。のち、明治22年(1889年)憲法公布の恩赦により家の再興が許され、知泉は伯父・泰文の家を継いだ。

明治12年(1879年)に茨城師範学校を卒業し、母校である水戸上市小学校訓導となる。明治14年(1881年)、21歳で上京し、郵便報知新聞で筆を執るかたわら、慶應義塾・欧亜学館などを転々とし、明治15年(1882年)に東京大学予備門、続いて帝国大学法科大学政治学科に学んだ。学業と並行して報知社に入社し、珂南・河水懶魚・碌堂のペンネームで『郵便報知新聞』で執筆し、『国民之友』などにも寄稿し、明治21年(1888年)に『東京新報』が創刊されると初代主筆となり、大学を中退した。

大隈重信の条約改正に反対し、三度発行停止となった。明治24年(1891年)『東京日日新聞』が伊東巳代治の手に移った時から同紙の社説を執筆し、翌年『東京新報』を廃刊して『東京日日新聞』の主筆になる。明治27年(1894年)の条約改正問題、翌年の遼東還付問題をめぐり、政府を擁護する論調にたって、『日本』の陸羯南と激しく論争し、その後二度の発行停止を命じられた。明治29年(1896年)米国・欧州を視察に出発(31年帰国)。この頃から新聞経営の実務を離れる。明治34年(1901年)再び外遊。明治37年(1904年)に『東京日日新聞』社長が加藤高明に移ると、健康を害したためもあって退社した。その後、海軍省及び陸軍省の嘱託となり、『陸軍省沿革史』の編集にあたった。大正12年(1926年)軍関係の仕事もやめ、『万朝報』の編集顧問となった。

昭和14年(1939年)、78歳で死去。墓所は酒門共有墓地

逸話 編集

  • 出自は水戸藩の重臣であった朝比奈家の分家であり、幕末の本家当主の朝比奈泰尚(弥太郎)は諸生党の中心人物の一人であった。7歳で寺に預けられた知泉は、遊び仲間から「あんたのうちは“かんとう(奸党)”じゃね。」といわれ、平気で「そうじゃ。」と答えていた。ただ尋ねてくる子も知泉も“奸党”の意味も分かっておらず、受け売りをしているに過ぎなかったという。
  • 知泉は諸生党の存在意義を明らかにしようと働きかけた。祇園寺の恩光無辺碑(水戸戊辰殉難慰霊碑)や、諸生党の多数が戦死した千葉県匝瑳市の慰霊碑は、知泉の撰文である。
  • 大正年間、陸軍省に勤めていた頃に、相楽総三の孫の木村亀太郎から「相楽以下赤報隊の参加者12名を靖国神社に合祀して欲しい」という旨の誓願書を受け取った[2]。知泉はこれを却下しなかったが、誓願が採択にかかることはなかった[2]。この12名は戊辰戦争のとき官軍によって追討・戦死あるいは捕縛・処刑された者たちで、合祀は困難だったが、うち2名(相楽と渋谷総司)は1929年昭和4年)に合祀が実現した[2]

思想と政見 編集

朝比奈はジャーナリストとして徳富蘇峰や陸羯南と並び称される。彼の政治上の意見は最初からカール・ラートゲンに学んだ国法学を立論の基礎とし、政党と議会を侮蔑し、官僚主導の国家主義を理想とする。「吏閥と貴族を同化」したものが唯一の支配階層である。その法律万能の立場から超然内閣擁護の論陣を張ったことにより、御用記者の第一人者と目されるようになる[3]。同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀により、「碌堂は霊魂ある印刷機」と評され、さらに「弁難と嘲罵」に長じ、政治よりも論理、論理よりも討論を得意とするので、円満の政論家とはいえないと指摘されていた。

著書 編集

単著 編集

  • 『日本今後の文字と文章』朝比奈知泉、1898年4月。全国書誌番号:40077272 
  • 『朝比奈知泉文集』朝比奈知泉文集刊行会、1927年4月。 NCID BN03030127全国書誌番号:46076296 
  • 『老記者の思ひ出』中央公論社、1938年3月。 NCID BN03215508全国書誌番号:46064440 

編集 編集

参考文献 編集

  • 鳥谷部春汀『明治人物評論』・正(明治31年(1898年)、博文館)

脚注 編集

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 28頁。
  2. ^ a b c 長谷川伸『相楽総三とその同志』講談社学術文庫、2015年2月10日、59・75ページ
  3. ^ 鳥谷部銑太郎『明治人物評論・正』博文館、1898年、9-15p頁。 

外部リンク 編集