木村一郎

日本の益子焼の陶芸家 (1915-1978)

木村 一郎(きむら いちろう、1915年(大正4年)[1][2]6月29日[3][2][4][5] - 1978年(昭和53年)[1]8月21日[6][7][8])は、日本の栃木県芳賀郡益子町の「益子焼」の陶芸家である[9][2]

きむら いちろう

木村 一郎
生誕 1915年(大正4年)6月29日
日本の旗 日本 栃木県芳賀郡益子町
死没 1978年(昭和53年)8月21日
死因 骨肉腫
国籍 日本の旗 日本
出身校 旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校
商工省陶磁器試験場
職業 陶芸家
時代 昭和
影響を受けたもの 濱田庄司河井寛次郎
影響を与えたもの 木村充、他多数
活動拠点 日本の旗 日本 栃木県芳賀郡益子町
配偶者 木村和賀子
子供 長女:木村滋子
父:木村直
母:木村静江
家族 祖父:木村英太郎
娘婿:木村充
孫:木村雅子
孫:木村充良
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益子町の豪農であった名家に生まれたが[10]、益子に移住した濱田庄司による「民藝運動」に影響を受け陶芸家を志し、河井寛次郎の作陶を手伝う事で様々な作陶技法を扱いながら作陶活動を続け、豪放磊落かつ自由闊達な天才肌の陶芸家であった[11]

生涯 編集

生い立ち 編集

1915年(大正4年)[1]6月29日[4][5]、父・直(なおし)[12][13][14]、母・静江[12]の子として益子町に生まれる[3][8][1]。父の直は、益子町収入役や益子町長を務めていた[15]祖父・英太郎[12][14][16]が興した益子銀行の後継者として慶応義塾理財科に学んだが[17]、日本画家を目指して川端玉章島崎柳塢に師事し、「郊歩」や「麗堂」[18]の雅号を名乗り活動していた[3][17]。また彫刻、金工、陶芸も手掛けたという[8]。また母の静江は栃木県河内郡上三川町の和田藤太郎[19]の娘であり敬虔なクリスチャンであったという。しかし一郎が生まれて48日目後に亡くなってしまう[3][12][13]

1921年(大正10年)、益子小学校に入学する[8]。その一方で下野銀行の倒産が起こり、祖父・英太郎は益子銀行[17][20]の経営を持続させながら[注釈 1]1922年(大正11年)8月29日、益子郵便局長を拝命する[22][16][3][17][14][23][24]。そしてこの頃から一郎は父に連れられ益子の陶器工場を訪れるようになる[17][8]

1928年(昭和3年)、旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校)に入学。1931年(昭和6年)、父・直が芸術家への道の志半ばに早世した[17]。長女・滋子によると、中学校上級生になった頃、夏休みに作った陶器を茨城県岩瀬町まで売りに行き、自ら作った陶器で初めて得たお金を手にしてパンを買ったと語ったいう[8][25]

作陶の道へ 編集

1933年(昭和8年)、中学校卒業後[26][1]、家業である郵便局を手伝うようになる。その一方で1935年(昭和10年)頃には作陶活動を積極的に行っており、同年9月には濱田庄司から作品を褒められたという[3][17]。そして1936年(昭和11年)頃からは益子内の各製陶所で作陶の修行を積むようになる[3][8][1][24]。また毎日のように濱田庄司の工房:濱田窯を訪れ、工房の仕事を手伝い、時には窯入れなどの仕事を深夜まで手伝い、結果として濱田に一年半ほど入門し学ぶ事になった[3][8][1][24]

1937年(昭和12年)には知人から河井寛次郎の作品を借り作陶の参考にするなど河井の影響を受け始めた[3][27]。また益子町主催の「益子陶器競技会」に出品し2等、3等、4等を受賞[3]。また第24回「商工省工芸展」に出品し入選[3]。そして友人であった益子の小田部や榎田と共に日本民芸館を訪問観覧した[3]

そして同年10月1日、本格的に陶芸を学ぶ為に周囲の反対を押し切り[3][17]京都にあった商工省陶磁器試験場に第20期生として入所した[3][17][26][1][24]水町和三郎澤村磁郎などから指導を受けた[3]。また京都に赴く際に濱田庄司から河井寛次郎への紹介状を貰い、河井の知遇を得て、京都修行時代には河井の工房で窯入れなどの仕事を頻繁に手伝いながら河井の様々な陶芸技術を習得していった[3][28]。そして関係する展覧会に出品し入選する[8]

1938年(昭和13年)2月28日、同試験場を修了する[3][4]。しかし同年8月、兵役に召集されてしまい[3]、古陶片を背中にくくりつけながら、中国大陸各地を転戦した[8]

1940年(昭和15年)、召集解除され益子に帰郷[3][8]。作陶活動を再開し、この年の第15回国展に出品し入選する[8]

1941年(昭和16年)、館野和賀子と結婚する[3][28]。そして高齢となった祖父・英太郎[14]に代わり益子郵便局長となる[3][28][26][24]その一方で作陶活動は続けられ、この年の第16回国展にも出品し入選をする。

1943年(昭和18年)、長女・滋子が生まれる[3]。この年に戦時統制令が益子焼にも適用され、芸術作家として濱田庄司、技術保存作家に佐久間藤太郎が認定された中、一郎も技術保存作家に認定され、この3人に対してのみ、陶土と薪の配給が行われたという[28][8]

陶芸一筋に 編集

1945年(昭和20年)、陶芸一筋に生きるために終戦と同時に郵便局長を辞め、翌1946年(昭和21年)に築窯し独立した[3][28][4][8][26][24]。郵便局長を辞めた事に親類[14]はがっかりしたが、一郎は後に「あの時は親類がいなくなった。でも後にまた親類が増えてきた」と語っている[8]。また同年、祖父・英太郎[14]が逝去する[3]

1947年(昭和22年)、初窯を焼いた[3]。この頃から白磁の作品も手掛けるようになり、また福原達朗に轆轤を教授した[3]

1951年(昭和26年)、次女・萠子が生まれる[29]

1955年(昭和30年)、アメリカ大使館副領事であるG・ロバート・マイヤーを益子に招いて陶芸の指導を行い[29]、マイヤーはたびたび益子の木村の窯を訪れるようになる[30]

1958年(昭和33年)には自宅の離れに塚本製陶所の研究生となっていた加守田章二を逗留させていた[30]

1959年(昭和34年)、日光東照宮350年祭に裏千家全国大会を開催した際に、献茶碗の制作を依頼され、また大井戸茶碗の複製を記念品として制作した[30]

1962年(昭和37年)、日光旧田母沢御用邸で、香淳皇后が栃木の物産の中から木村一郎作の大鉢を買い上げた[30]

1965年(昭和40年)、日本工芸会を脱会し、在野の陶芸家となる[30][31]

1973年(昭和48年)、合田好道に伴って韓国の窯元への視察と、陶芸家との技術交流を目的とした韓国旅行をした[30]

その他にも陶芸家として様々な展覧会に出品し入賞[1]、また積極的に個展も開いた[8][32]。そして濱田庄司から柿釉、主に河井寛次郎から影響を受け[33]、練上げや辰砂釉[24]富本憲吉からの象眼、バーナード・リーチからの筒描き[29]、また白磁や[3]黄釉も手がけ[29]、これらの高度な技術や様々な釉薬の使い方を学び、それらを用いた作陶にも挑んだ[26][1]。また朝鮮風の陶器も好み、李朝風の陶器も作陶した[24]。そしてその完成度は高く、民芸の陶工に留まらない、益子出身としては希有な異色の陶芸家であり[17]、天才肌の陶芸家であった[26]

1977年(昭和52年)、益子の道祖土に転居し、更なる陶芸の作風を展開しようとした[30][31]

しかし1978年(昭和53年)[1]8月21日骨肉腫のため逝去した[7][8]。享年63[6][31]

家族 編集

長女・滋子と結婚し婿養子として木村家に入り、義父に師事し「木村窯」2代目として益子焼の陶芸家となった木村充[34][35][36]

また一郎の次女である萠子も陶芸家となった[36]

そして木村充の長男であり木村一郎の孫である、木村一郎の登り窯を受け継ぐ同じく益子焼の陶芸家である木村充良と[37][38][36]、同じく木村充の長女である木村雅子は染色家である[36]

弟子 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 木村一郎関連史料によると[3]、益子銀行の閉鎖は1921年(大正10年)と記されているが、実際には1936年(昭和11年)5月12日に益子銀行本店の解散が行われた[21]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 下野新聞社 2001, p. 198.
  2. ^ a b c 『日本伝統工芸展図録 第6回』「入選者住所録」「木村一郎」 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2024年4月14日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 57.
  4. ^ a b c d 『世界陶磁全集 第16』「現代日本陶藝家名簿」P216 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年5月31日、 国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  5. ^ a b 日外アソシエーツ 1990.
  6. ^ a b 下野新聞 1978年(昭和53年)8月23日 3面「木村一郎氏が死去 益子焼作家第一線の」
  7. ^ a b 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 60.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 下野新聞社 1984, p. 106-110.
  9. ^ 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998.
  10. ^ 「下野新聞」1990年(平成2年)1月31日付 5面「カメラ散歩 古里の建物」「木村家の母屋(益子町)」「豪農の構え どっしりと」
  11. ^ 「下野新聞」2007年(平成19年)1月21日付 23面「益子陶芸美術館 2つの小企画展」「益子のモダニスト 木村一郎とその系譜」「時代先取り 技多彩に」
  12. ^ a b c d 『人事興信録 4版』「き之部」「木村英太郎」き八 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年8月1日閲覧。
  13. ^ a b 『人事興信録 5版』「き之部」「木村英太郎」き一二 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年8月1日閲覧。
  14. ^ a b c d e f 『野州名鑑』「き之部」「木村英太郎」P1020 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年7月31日閲覧。
  15. ^ 『栃木県自治制史』 「芳賀郡町村吏員町村会議員」「益子町」- 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年8月1日閲覧。
  16. ^ a b 『逓信六十年史』「續編」「東京遞信局管內」「栃木縣 芳賀郡」「益子局」 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年8月1日 国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  17. ^ a b c d e f g h i j 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 4.
  18. ^ 『現代畫家番附 標準價格付 昭和15年改正版』「日本全國獨立畵家欄」P144 - 国立国会図書館デジタルコレクション2023年6月30日 国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  19. ^ 『大日本紳士名鑑』「栃木縣」「河内郡」「上三川町」 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年8月1日閲覧。
  20. ^ 『栃木県官民職員録』大正1年8月現在「銀行之部」「株式会社 益子銀行」P167 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年8月1日閲覧。
  21. ^ 『官報 1936年07月18日』「商業登記」 「株式會社益子銀行解散(本店)」- 国立国会図書館デジタルコレクション
  22. ^ 『逓信六十年史』「續編」「東京遞信局管內」「栃木縣」「木村英太郎」写真掲載 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年8月1日 国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  23. ^ 『栃木県勢大観』「栃木縣人名鑑」「きの部」「益子郵便局長 木村英太郎氏」 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年5月31日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  24. ^ a b c d e f g h 『陶説』(243)「陶郷旅日記(1) 益子焼」村上正名 P58 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年6月1日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  25. ^ 下野新聞社 1984, p. 106.
  26. ^ a b c d e f 栃木県立美術館 1995, p. 162.
  27. ^ 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 4-5.
  28. ^ a b c d e 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 5.
  29. ^ a b c d 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 58.
  30. ^ a b c d e f g 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 59.
  31. ^ a b c 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 6.
  32. ^ 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 57-60.
  33. ^ 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 4-6.
  34. ^ a b 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 1998, p. 7.
  35. ^ a b 下野新聞社 1984, p. 133.
  36. ^ a b c d 「下野新聞」2006年(平成18年)8月25日付 28面「陶芸と染色150点 5人の作品並ぶ」「宇都宮で益子窯三代展」
  37. ^ 下野新聞社 1999, p. 218.
  38. ^ きむら みつよし|益子焼 作家一覧|Mashiko-DB.net
  39. ^ 下野新聞社 1984, p. 128.
  40. ^ 下野新聞社 1984, p. 140.
  41. ^ 小寺平吉 1976, p. 75-80.
  42. ^ 下野新聞社 1984, p. 141.
  43. ^ 「下野新聞」1989年(平成元年)5月8日付 14面「新・陶源境 とちぎの陶工たち 38」「山口 孟(益子)」「伝統にこだわり続ける」

参考文献 編集

  • 小寺平吉『益子の陶工たち』株式会社 學藝書林〈新装第一版〉、1976年6月15日。 NCID BN13972463国立国会図書館サーチR100000002-I000001346989-00, R100000001-I102538532-00, R100000002-I000001346989-00, R100000002-I000001474973-00 
  • 下野新聞社『陶源境ましこ 益子の陶工 人と作品』1984年9月27日。 NCID BN1293471X国立国会図書館サーチR100000001-I076416373-00 
  • 日外アソシエーツ株式会社 編集部『現代名工・職人人名事典』日外アソシエーツ、1990年4月20日。 NCID BN04608856国立国会図書館サーチR100000002-I000002040496-00 
  • 栃木県立美術館『栃木県の近代美術』栃木県立美術館、1995年、162頁。 NCID BN15149659国立国会図書館サーチR100000002-I000002476089-00 
  • 下野新聞社『とちぎの陶芸・益子』下野新聞社、1999年10月10日、239頁。ISBN 9784882861096 
  • とちぎの小さな文化シリーズ企画編集会議 編『栃木美術探訪』下野新聞社〈とちぎの小さな文化シリーズ 2〉、2001年3月27日、198頁。ISBN 9784882861447NCID BA55123604国立国会図書館サーチR100000002-I000003043618-00 
  • 文・青木宏,写真・乾剛『益子・笠間』〈窯別ガイド 日本のやきもの〉2003年12月6日、26頁。ISBN 4473019411 


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関連文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集