香淳皇后
香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6日 - 2000年〈平成12年〉6月16日)は、日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位:1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は良子(ながこ)。お印は桃。
香淳皇后 | |
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![]() 1928年(昭和3年)撮影 | |
第124代天皇后 | |
皇后 | 1926年(昭和元年)12月25日 |
皇太后 | 1989年(昭和64年)1月7日 |
誕生 |
1903年3月6日![]() |
崩御 |
2000年6月16日(97歳没)![]() 吹上御苑 大宮御所 |
大喪儀 | 2000年(平成12年)7月25日 |
陵所 |
![]() 武蔵野東陵 |
諱 | 良子(ながこ) |
旧名 | 良子女王 |
追号 |
香淳皇后(こうじゅんこうごう) 2000年(平成12年)7月10日 追号勅定 |
印 | 桃 |
氏族 | 皇室(久邇宮家) |
父親 | 久邇宮邦彦王 |
母親 | 邦彦王妃俔子 |
配偶者 | 昭和天皇 |
結婚 | 1924年(大正13年)1月26日 |
子女 | |
身位 | 女王→皇太子妃女王(親王妃女王)→皇后→皇太后 |
皇居 | 青山東宮御所→皇居(宮城)→皇居・吹上大宮御所 |
東久邇成子、久宮祐子内親王、鷹司和子、池田厚子、明仁(第125代天皇、上皇)、常陸宮正仁親王、島津貴子の生母。徳仁(第126代天皇)、秋篠宮文仁親王(皇嗣)、黒田清子の父方の祖母。敬宮愛子内親王、眞子内親王、佳子内親王、悠仁親王の曾祖母。
人物編集
久邇宮家の出身で、皇太子時代の昭和天皇と結婚する以前も皇族の身分でありそれまでは「良子女王(ながこじょおう)」と称しており、敬称も「殿下」であった[1]。
1926年(昭和元年)12月25日に義父の大正天皇が崩御して昭和天皇が第124代天皇に践祚し、自身が立后するまでは「皇太子裕仁親王妃良子女王(こうたいしひろひとしんのうひながこじょおう)」と称されていた[2]。
1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御し、第一皇男子(第5子)の皇太子明仁親王が第125代天皇に即位してその妃・美智子が立后して皇后となったことに伴い、皇太后となった。
2000年(平成12年)6月16日の崩御後、「香淳皇后(こうじゅんこうごう)」と追号された。
夫の昭和天皇が神代を除いた歴代天皇のうち最長在位・最長寿であるように、香淳皇后自らも歴代皇后中で最長の在位(62年と14日間)であり、神話時代を除き最長寿(満97歳没)である。
2019年(令和元年)5月1日現在、皇族[注 1]出身である最後の皇后及び皇太子妃でもある。また2021年(令和3年)現在、皇室典範の定めるところにより皇位継承権を有する3名の親王(秋篠宮文仁親王、悠仁親王、常陸宮正仁親王[注 2])の女系(母系)も含めた最近共通祖先にあたる(「皇位継承順位」も参照)。
生涯編集
幼少時代編集
1903年(明治36年)3月6日、父の久邇宮邦彦王と母の同妃俔子の第一女子(3男3女のうち第3子)として誕生[3]。
兄に久邇宮朝融王、久邇邦久、妹に三条西信子、大谷智子、弟に東伏見慈洽がいる。
1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は他の在籍児童らとは別室で昼食をとるが、そのとき妹の信子女王の他、後に自身と結ばれる迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)と淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と同室であった。「優しい一方しっかりとした性格で、2人の妹が彼女の行動を全て真似ることもあった」という。
1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。1915年(大正4年)、学習院女学部中学科進学。
同学在学中の1918年(大正7年)1月14日に皇太子裕仁親王の妃に内定。内定の理由には、貞明皇后の目にも留まった彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたことなどが挙げられる。内定に伴い学習院を退学し、同年4月13日以降は久邇宮邸内に設けられた学問所で皇太子妃になる為の教育を受ける。学問所は“お花御殿”と呼ばれ、妹たちのほか、親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、共に学んだ。
なお、皇太子妃教育のために創設されたお花御殿の建物はその後に東京市麻布区日ヶ窪(現・東京都港区麻布十番)にあった東京府立第三高等女学校(府立三女)に下賜された[4]。第二次世界大戦後の学制改革などにより府立三女が現在の東京都立駒場高等学校と改名し、校舎を現在の目黒区大橋に移転した後、お花御殿の建物も現校地へ移築し、「仰光寮」として保存されている[4]。
1920年(大正9年)5月7日に裕仁親王が立太子礼を執り行ったことを受け、同年6月10日に正式に婚約が内定する。しかし、1921年(大正10年)に入って母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫った、いわゆる"宮中某重大事件"が起こる[5]。
事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、中でも宮中に影響力を保持しようとする山縣の策略とする見解が強かったため久邇宮家に同情が集まり、原敬首相(原内閣)らの反山縣勢力が山縣追い落としにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日に宮内省から「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし。」の発表が行われて事件は決着した(翌日付で新聞記事解禁)。最終的な決め手のひとつが、生物学者でもあった裕仁親王の「『良子でよい』という意向であった」と言われている。
学問所での教育は2、3年の予定だったが、宮中某重大事件(先述)や関東大震災、虎ノ門事件(後述)の影響により婚儀は延期を重ねた。
皇太子妃時代編集
1922年(大正11年)6月20日、結婚について大正天皇の勅許が下り、9月18日に納采の儀。同日付で勲一等宝冠章を受章する。翌1923年(大正12年)に婚儀を執り行う予定だったが、関東大震災で延期された[6]。
1924年(大正13年)1月26日、成婚。皇太子妃となり、赤坂の東宮御所に住居を移転する。裕仁親王との夫婦関係はこの頃より円満で、当時も「手をつないで散歩をするなどしていた」という。1925年(大正14年)12月6日、第一子(第1女子)である照宮成子内親王(2男5女の7人の昭和天皇の子女のうち唯一、皇太子妃時代に誕生した人物)を出産する。皇太子妃良子は乳人こそ設置したが、可能な限り自らの母乳で養育をした。
皇后時代編集
昭和前期編集
1926年(大正15年)12月25日、義父の大正天皇崩御、皇后節子は皇太后となり(貞明皇后)摂政宮皇太子裕仁親王の第124代天皇践祚に伴い立后。1927年(昭和2年)、第二皇女(第2子)の久宮祐子内親王を出産するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭逝。香淳皇后は自ら死化粧を施し、昭和天皇も禁を破り通夜に出席した。同年11月10日、即位の大礼が京都御所で執り行われた。
1929年(昭和4年)、
1933年(昭和8年)12月23日、第5子である第一皇男子の継宮明仁親王を出産。待望の皇太子誕生とあり、『皇太子さまお生まれなつた』(作詞:北原白秋、作曲:中山晋平)という奉祝歌までもが制作され、宮城前の万歳三唱・旗行列・提灯行列・花電車・奉祝会など日本全体が祝賀ムードに包まれた[7]。
一方この頃より、皇太子明仁親王の姉にあたる3人の皇女たちは学習院前期(小学校)入学とともに両親である昭和天皇と香淳皇后の手元を離れ、旧江戸城本丸に建てられた「呉竹寮」で養育される。これは「天皇の元では養育係が仕えづらく、その結果、我がままに育ってしまう」という批判に加え、将来の降嫁(皇族以外との結婚の場合は皇籍離脱)に備えるためである。呉竹寮の一部は戦後、吹上御苑に移築され「林鳥亭」として現存する。
1935年(昭和10年)11月28日、第6子・第二皇男子の義宮正仁親王(現:常陸宮)出産。また、皇室の神格化が推進され、皇太子明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育され、親子でありながら土日以外には面会することさえできなくなった。母の良子皇后は明仁親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。1939年(昭和14年)3月2日、第7子(末子)・第五皇女子の清宮貴子内親王出産。
1943年(昭和18年)10月13日、自身が初めて出産し授かった第一子の照宮成子内親王が盛厚王(東久邇宮稔彦王第一男子)と結婚。
第二次世界大戦中は昭和天皇とともに夫婦で東京都にとどまり、心労の多かった夫を支えたと言われる。またこの頃には、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の乗る自動車には同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、国民と同じように皇室への食糧配給も厳しくなる中、天皇と夕食を共にする際、二人で相談して、必ず料理の一皿か二皿を残し、侍従や女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は引揚者のための布団や着物作りを行った。
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲の中、東久邇宮家に嫁した盛厚王妃成子内親王が長男の信彦王を出産した。昭和天皇と香淳皇后の初孫となった。
昭和中期編集
皇室の在り方が一変した後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする夫・昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社、護国神社への天皇親拝にもたびたび同行している。
また皇女たちの結婚にあたり、長女成子内親王の例から、娘たちの意思を尊重するためのお見合いやデートを勧めた。その一方で、長男の皇太子明仁親王(当時)と民間出身である正田美智子(当時)との婚約が決定された(貴賤結婚)際には秩父宮妃勢津子の母親で貞明皇后の御用係として長年宮中に仕えた松平信子らとともに(皇太子妃を)「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示していた。
『入江相政日記』においては、「松平が宮崎白蓮などとともに、正田家に婚姻辞退を迫るべく右翼団体を動かして圧力をかけようとした」と記述されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年(昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いた。
1960年(昭和35年)11月、長女の東久邇成子が病に倒れた。すでに末期癌が進行し、翌年4月からは宮内庁病院に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を回避しながら見舞いに訪問したが、7月に東久邇成子は35歳で死去した。天皇ともども、夫妻に初めて授かった愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受けた。
昭和40年代(1965年 - 1974年)前半から半ばの『入江相政日記』[注 3]によれば、皇后が絶大な信頼を置いた女官・今城誼子の問題が頻出している。新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙を買っていたことから、今城は『入江日記』で「魔女」と名づけられ登場する(宮中魔女事件)。今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた宮中祭祀に口を挟み、天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなどしたため、入江相政侍従長等の側近たちは天皇の同意を取り付けて、1971年(昭和46年)に今城を宮内庁から追放した。皇后は「解任を、最後まで惜しんだ」とされる。
1971年(昭和46年)には天皇と共に訪欧。香淳皇后にとっては、これが初めての外国訪問となった。基本的に天皇に同伴する旅程ではあったがブリュッセル滞在時には、お忍びで小便小僧を見物に出る機会もあった(天皇は50年前に見たとのことで出掛けなかった)[8]。
1973年に初孫の東久邇信彦が長男・征彦を儲け皇后の初ひ孫となった。1974年(昭和49年)には金婚式を迎え、記者団の「楽しかった思い出は何か」という問いに、天皇皇后ともに「先の欧州訪問」を挙げた。翌年の訪米にも行幸啓で共にした。
昭和後期編集
1976年(昭和51年)には政府主催の「天皇陛下御在位五十年記念式典」に出席し祝賀を受けるものの、この頃から心身に老いの兆候が目立つようになる。翌年の夏に那須御用邸内で転倒した際に腰椎を骨折。側近はこのことを伏せ、適切な治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。この事故を境に認知症など老いの兆候は顕著になった。歩行に際しても杖を用いることが多くなり、散歩の際に天皇が手を引く姿も見られた。式典・行事に際しても北白川祥子女官長らが介添えしていた。
可能な限り式典などの公務に出席を続けていたが、1986年(昭和61年)1月2日の新年祝賀・4月29日の天皇誕生日祝賀を最後に出席できなくなり、同年に政府主催で開催された「天皇陛下御在位六十年記念式典」は欠席。同年9月30日以降は日課にしていた散歩も取り止めるようになる。車椅子を頻繁に利用するようになり、1987年(昭和62年)12月11日、新年用の写真撮影後に軽い心臓発作を起こし、翌年以降は一般参賀にも欠席するようになった。
皇太后時代編集
1989年(昭和64年)1月7日、夫・昭和天皇の崩御に伴い皇太后となる。昭和天皇崩御の直前には、皇太子明仁親王を含め5人の子(他、鷹司和子、池田厚子、常陸宮正仁親王、島津貴子)が見守ると共に皇后も車椅子から立ち上がり、昭和天皇の最期を看取った。
同年(平成元年)2月24日に、内閣の主催で行われた昭和天皇の大喪の礼(委員会委員長・竹下登首相)には欠席し、名代を常陸宮正仁親王妃華子が務めた。この年には昭和天皇の他に第三皇女の鷹司和子、実妹の大谷智子が死去するなど肉親との死別が続いた。
平成になって以降は認知症の症状が進行し「老人特有の症状」と報道されていた[注 4]。また、外出することも稀になる。1996年(平成8年)3月6日に満93歳となり、後冷泉天皇の皇后藤原寛子の数え年92歳を抜いて神代を除いては歴代最長寿となった。同年、9年ぶりに近影が公開された。
崩御編集
2000年(平成12年)に入り、定期的に呼吸が荒くなる症状が出始めるようになり、6月16日、老衰による呼吸不全のため吹上大宮御所で崩御した[9]。97歳没。歴代の皇后中で最長の在位(62年と14日間)であり、神話時代を除き最長寿(97歳と102日)でもあった。
崩御の直前には4人の子女(池田厚子、天皇明仁、常陸宮正仁親王、島津貴子)をはじめ孫も立ち会った。明仁は公務を終えて急いで大宮御所に向かい、到着1分後に皇太后は息を引き取ったという。
7月10日に「香淳皇后(こうじゅんこうごう)」と追号された(勅定)。香淳とは上代の漢詩集『懐風藻[注 5]』で、お印と号にちなんだ「桃」から「花舒桃苑香、草秀蘭筵新(花は開いて桃の園は香しく,草は伸びて蘭のむしろは新しく感じられる)(安倍広庭「春日侍宴」)、および「四海既無為、九域正清淳」(四海は太平でよく治まり,天下に清らかであつい徳が広く及んでいる)(山前王「侍宴」)に拠る。「和書」を典拠にする諡号はこれが初めてであった。 2000年(平成12年)6月16日の崩御した日が金曜日であったこともあり、各方面では哀悼の意を表明しつつも、比較的現実的な対応がなされた。
例えば、崩御の当日と翌日(6月17日土曜日)は、中央競馬は哀悼の意を表するため、17日の競馬の全レースを中止し19日に振り替え、18日、19日の出走ファンファーレを自粛して開催された(なお、公営競技では、尼崎競艇が当日中止となっている)。翌日の甲子園の阪神 - 巨人戦は午前中に中止を決定しているが、これは皇太后崩御とは関係がなく悪天候のためであり、翌々日(6月18日日曜日)は開催している。また、大阪府大阪市中央区・道頓堀ではグリコのネオンサインが崩御当日のライトアップを自粛し、翌日は「くいだおれ太郎」も黒一色の衣装を纏っていた。
斂葬の儀は同年7月25日に豊島岡墓地で行われ、喪主は天皇明仁が務めた。また、この日に予定されていたプロ野球のオールスターゲーム(長崎県営野球場で開催)が翌日に順延となった。
内閣総理大臣謹話編集
皇太后の崩御を受け、当時の内閣総理大臣森喜朗は以下の内閣総理大臣謹話を発表した。
本日、皇太后陛下の崩御の報に接し、哀痛の念を禁じ得ません。天皇皇后両陛下、皇族各殿下、御近親の方々のお悲しみはいかばかりかと拝察申し上げます。
皇太后陛下におかせられては、その御生涯の大半を昭和天皇の后として正に激動の時代をお過ごしになりました。社会が大きく変化していく中で、困難な時期にありましても、皇太后陛下には、昭和天皇の良き御伴侶として、公私にわたり、常に、誠心誠意お尽くしになりました。私ども国民は深く心打たれると同時に、大きな励みとなったところであります。
また、その御生涯を通じ、国際親善や芸術、文化、医療、福祉など幅広い分野にわたり、昭和天皇をお助けして、お務めになりました。殊に、そのお優しいお人柄からにじみ出るほほえみを湛えられたお姿に心から敬愛の念を抱いたのであります。
昭和天皇が崩御せられた後は、在りし日の昭和天皇をお偲びになりつつ、慎ましくお過ごしになっていらっしゃいました。
皇太后陛下が崩御せられたことは誠に哀惜に堪えず、ここに、国民と共に謹んで哀悼の意を表します。
御誄編集
崩御を受け、第125代天皇明仁は以下の御誄(おんるい:追悼の辞)を述べた。
年譜編集
- 1903年(明治36年)3月6日、東京府麻布区(現:東京都港区六本木)久邇宮邸にて、誕生。
- 1907年(明治40年)9月、学習院女学部幼稚園入園。
- 1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。
- 1915年(大正4年)、学習院女学部中学科入学。
- 1918年(大正7年)1月14日、皇太子裕仁親王の妃に内定。
- 1924年(大正13年)1月26日、皇太子裕仁親王と成婚(皇太子妃冊立)。
- 1925年(大正14年)12月6日、照宮成子内親王(第1子/長女)を出産。
- 1926年(大正15年)12月25日、皇太子裕仁親王の践祚に伴い立后(第124代天皇后:皇后冊立)。
- 1927年(昭和2年)、久宮祐子内親王(第2子/次女)を出産。
- 1929年(昭和4年)9月30日、孝宮和子内親王(第3子/三女)を出産。
- 1931年(昭和6年)3月7日、順宮厚子内親王(第4子/四女)を出産。
- 1933年(昭和8年)12月23日、継宮明仁親王(第5子/長男)を出産。
- 1935年(昭和10年)11月28日、義宮正仁親王(第6子/次男)を出産。
- 1939年(昭和14年)3月2日、清宮貴子内親王(第7子/五女)を出産。
- 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御に伴い皇太后となる(皇太后冊立)。
- 2000年(平成12年)6月16日、皇居・吹上大宮御所にて崩御。97歳没。
家系編集
久邇宮邦彦王(くによし)の第一王女子(3男3女のうち第3子)。母は12代薩摩藩主公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)。
祖父の朝彦親王は男子9人を儲けており、このうち内閣総理大臣経験を持つ東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。昭和天皇との間に自身が出産した第1子で第一皇女の照宮成子内親王(東久邇成子)の夫である盛厚王(稔彦王の長男)は父方の、第7子(末子)で第五皇女の清宮貴子内親王(島津貴子)の夫の島津久永は母方の、従弟にあたる。
皇子女編集
夫の昭和天皇との間に、2男5女の7人の皇子女を出産し儲ける。うち成人したのは、2男4女の6人。
2020年(令和2年)4月1日現在、3女は故人、第四皇女子(第4子)以降の4人の子女(2男2女)は80歳以上で存命中である。
御称号及び 諱・身位 |
読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
照宮成子内親王 | てるのみや しげこ | 1925年〈大正14年〉 12月6日 |
1961年〈昭和36年〉 7月23日(満35歳没) |
第一皇女子 (第1子) |
盛厚王(東久邇宮家)と結婚後、 盛厚王妃成子内親王となる。 戦後の皇籍離脱後は、 東久邇成子(姓読み:ひがしくに)となる。 子女:3男2女(5人)。 | |
久宮祐子内親王 | ひさのみや さちこ | 1927年〈昭和2年〉 9月10日 |
1928年〈昭和3年〉 3月8日(満0歳没) |
第二皇女子 (第2子) |
久宮祐子内親王、夭折。 子女:無し。 | |
孝宮和子内親王 | たかのみや かずこ | 1929年〈昭和4年〉 9月30日 |
1989年〈平成元年〉 5月26日(満59歳没) |
第三皇女子 (第3子) |
鷹司平通と結婚 皇籍離脱後、鷹司和子(姓読み:たかつかさ)となる。 (皇室典範第12条[11]の規定による) 子女:無し、養子:1男(1人)。 | |
順宮厚子内親王 | よりのみや あつこ | 1931年〈昭和6年〉 3月7日 |
存命中(89歳) | 第四皇女子 (第4子) |
池田隆政と結婚 皇籍離脱後、池田厚子(姓読み:いけだ)となる。 (皇室典範第12条[11]の規定による) 子女:無し。 | |
継宮明仁親王 | つぐのみや あきひと | 1933年〈昭和8年〉 12月23日 |
存命中(87歳) | 第一皇男子 (第5子) |
正田美智子と結婚 (→皇太子妃→皇后→上皇后美智子) 明仁(第125代天皇) 1989年(昭和64年)1月7日: 父である昭和天皇の崩御に伴い、 即位(皇位継承:践祚)。 2019年(平成31年)4月30日に退位(譲位)、 上皇 (天皇退位特例法): 2019年(令和元年)5月1日 - 。 子女:2男1女(3人)。 | |
義宮正仁親王 | よしのみや まさひと | 1935年〈昭和10年〉 11月28日 |
存命中(85歳) | 第二皇男子 (第6子) |
津軽華子(旧姓読み:つがる)と結婚 (→正仁親王妃華子)。 常陸宮正仁親王(常陸宮当主) 皇位継承順位第3位[12]。 子女:無し。 | |
清宮貴子内親王 | すがのみや たかこ | 1939年〈昭和14年〉 3月2日 |
存命中(82歳) | 第五皇女子 (第7子) |
島津久永と結婚 皇籍離脱後、島津貴子(姓読み:しまづ)となる。 (皇室典範第12条[11]の規定による) 子女:1男(1人)。 |
逸話編集
- 「おおらかでおっとりとした円満な性格の持主である」と言われ、昭和天皇との夫婦仲は「まことに良かった」と伝えられる。昭和天皇は香淳皇后のことを「良宮(ながみや)」と呼び、皇后は天皇のことを「お上(おかみ)」と呼んだ。いわゆる従順に「夫を立てる」タイプの古風な良妻賢母の女性で、それだけに天皇も、よく皇后のことを気遣ったらしい。
- 天皇との間に夫婦喧嘩は一度も無かった、と近しい人は繰り返し証言しているが、河原敏明は『文藝春秋』(1979年(昭和54年)2月号)に「天皇陛下の『夫婦喧嘩』」という随筆を載せ、側近がたった一度目撃したという夫婦喧嘩の光景を紹介している。
- 「天皇と皇后の晩年の楽しみは、皇居や御用邸内を2人で散歩することで、植物の好きな天皇がよく皇后に説明をしながら歩いた」という。また分かれ道に来ると、しばしば天皇が「良宮、どちらにしようか」と問い、皇后が「お上のお好きなほうへ」と答えたというエピソードがある。
- 朝食のひとときにNHKの連続テレビ小説を視聴するのが好きだった天皇に付き合って、この番組をよく見ていた。一方、皇后本人は奈良漬けを好んでいたことから、「朝食をはじめ日常の食事では奈良漬けがしばしば添えられた」という(夫・昭和天皇は特に漬物の好みは強くなかった)。
- 活発で開明的な姑貞明皇后とは性格の相違・出自の相違(貞明皇后が華族である九条家の側室の子であるのに対し、香淳皇后は久邇宮家嫡出の皇族であった)もあってうまくゆかず、特に結婚した当初は嫁姑関係に悩んだとも言われる。
- 宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数か月前、夫・皇太子裕仁親王(昭和天皇)と共に夫妻で療養先である葉山御用邸に見舞った際である。香淳皇后が姑である貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいっていないと知らしめる結果になってしまった。
- 書、刺繍、日本画、謡(観世流)、バラの栽培、ピアノなど多趣味であった。
- 特に日本画は玄人はだしで、結婚以前には高取稚成から大和絵を学び、その後、川合玉堂、前田青邨に師事、1956年(昭和31年)以降はよく宮内庁職員美術展に出品した。号を「桃苑」といい、皇居東御苑にある桃華楽堂はこの号に由来する。画集は以下がある。
- バラは皇后自ら鋏を取り、枝の剪定などを行っていた。皇居の庭は天皇の意向により、武蔵野の面影を残し、自然の生育に任せて、雑草の類もむやみに除くことを禁じたが、唯一の例外は皇后のバラ園で、ここだけは天皇も口を挟むことはなかった。
- 1971年(昭和46年)秋に、郵政省発行の「天皇皇后陛下御訪欧記念切手」で、所縁の図案として、皇后画「海の彼方」が用いられた。
- 1971年(昭和46年)の訪欧、1975年(昭和50年)の訪米のドレス一式の制作はフランスのデザイナーのピエール・バルマン[13]。
- 晩年の動静は、皇太后宮職侍従も務めた卜部亮吾が遺した『卜部亮吾侍従日記』(全5巻、朝日新聞出版)に詳しい。卜部は「斂葬の儀」の祭官長を務め、2002年(平成14年)に没した。
栄典編集
日本編集
日本以外編集
系譜編集
香淳皇后 | 父: 邦彦王(久邇宮) |
祖父: 朝彦親王(久邇宮) |
曾祖父: 邦家親王(伏見宮) |
曾祖母: 鳥居小路信子 | |||
祖母: 泉萬喜子 |
曾祖父: 泉亭俊益 | ||
曾祖母: - | |||
母: 俔子 |
祖父: 島津忠義 |
曾祖父: 島津久光 | |
曾祖母: 島津千百子 | |||
祖母: 山崎寿満子 |
曾祖父: 山崎拾 | ||
曾祖母: - |
明仁の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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香淳皇后の登場する作品編集
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ 文部省 編『皇太子殿下良子女王殿下ご略歴』。、1923年。国立国会図書館デジタルコレクション 書誌ID 000000591319
- ^ 官報、大正14年(1925年)12月6日、号外、「告示」ならびに「宮廷録事」
- ^ 歴代皇后125代総覧417頁
- ^ a b 施設の概要 東京都立駒場高等学校公式サイト
- ^ 歴代皇后125代総覧418頁
- ^ 歴代皇后125代総覧419頁
- ^ 歴代皇后125代総覧420頁
- ^ 「飾り気ない歓迎ぶり 新聞も旅行者扱い」『中國新聞』昭和46年10月3日 15面
- ^ “昭和天皇・香淳皇后 - 宮内庁”. 宮内庁公式ウェブサイト. 宮内庁. 2019年5月4日閲覧。
- ^ 首相官邸 内閣総理大臣謹話 平成十二年六月十六日 - 2018年7月28日閲覧。
- ^ a b c 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」
- ^ 第1位:(皇嗣) 秋篠宮文仁親王(53歳)、第2位:悠仁親王(12歳)、第4位以降は不在。
- ^ 文化出版局発行「服飾辞典」世界のデザイナー フランス(オートクチュール) ピエール・バルマン