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木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]木村 健兒と表記されることもある。本名は木村 米太郎(きむら よねたろう)[1][2][3][4]新派を経て、大きな体格を生かして松竹蒲田撮影所などのサイレント映画のみ出演した[3][4]

きむら けんじ
木村 健兒
木村 健兒
1928年の写真、満41歳。
本名 木村 米太郎 (きむら よねたろう)
生年月日 (1887-12-18) 1887年12月18日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市
身長 174.2cm
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇サイレント映画
活動期間 1918年 - 1932年
主な作品
父帰る
男に御用心
肉体美
愛は力だ

目次

来歴・人物編集

1887年(明治20年)12月18日京都府京都市に生まれる[1][2][3][4]。旧制京都府第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校)卒業[1][3][4]

天然色活動写真の連鎖劇を経て、1919年(大正8年)2月、本郷座に拠点を持つ岡本五郎石川新水栗島狭衣梅島昇らの新生劇団に入団し『浅草物語』で初舞台を踏む[1][2][3][4]。その後、大阪府にあった弁天座楽天地での出演を経て、小織桂一郎木下吉之助福井茂兵衛などの新派俳優の巡業に加わる[1][2][3][4]。1924年(大正13年)4月、神戸市三宮(現在の同市中央区)にあった三ノ宮歌舞伎座で一座を結成し、1926年(大正15年)7月には東京市下谷区二長町(現在の東京都台東区台東一・二丁目辺り)にあった市村座鈴蘭座を結成した[1][2][3][4]。同年9月、舞台を退き松竹蒲田撮影所へ入社[1][2][3][4]。大柄な体格を生かして多数の作品で主に脇役として活躍した[1][2][3][4]。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、東京府荏原郡蒲田町新宿1261番地(後の東京市蒲田区新宿町、現在の東京都大田区萩中2-3丁目及び西糀谷3-4丁目辺り)に住み、身長は5尺7寸5分(約174.2センチメートル)、体重は18貫400匁(約69.0キログラム)、趣味は園芸ビリヤードで、甘味の物が嗜好である旨が記されている[3][4]

1931年(昭和6年)9月、鈴木傳明岡田時彦高田稔らが一斉に松竹蒲田を退社して創立した不二映画社に移籍する[1]。ところが、1932年(昭和7年)9月15日に公開された青山三郎鈴木重吉監督映画『金色夜叉』以降の出演記録が見当たらず、以後の消息は不明である[1][2]。トーキー作品への出演は1作もなく、出演作品はすべてサイレント映画であった。没年不詳

出演作品編集

天然色活動写真大阪撮影所編集

全て製作は「天然色活動写真大阪撮影所」、配給は「天然色活動写真」、全てサイレント映画である。

松竹蒲田撮影所編集

全て製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹」、全てサイレント映画である。

不二映画社編集

全て製作は「不二映画社」、配給は「新興キネマ」、全てサイレント映画である。

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、192-193頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、199頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1929年、106頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、141頁。
  5. ^ 短縮版及び日本映画データベースでは、木村健二

外部リンク編集