李ヒョウ

中国の西魏から北周にかけての武人
本来の表記は「李檦」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

李 檦(り ひょう、? - 564年)は、中国西魏から北周にかけての武人。李弼の弟。は霊傑。本貫遼東郡襄平県

経歴編集

北魏の太中大夫の李永の子として生まれた。身長は5に満たなかったが、性格は果断で、胆気があった。若くして爾朱栄に仕えた。528年、兼別将として従軍して元顥を破り、討逆将軍に任ぜられた。530年、爾朱栄が殺害されると、李檦は爾朱世隆に従って河北に逃れた。爾朱兆に従って再び入洛した。淝城郡男の爵位を受け、都督に転じた。531年元樹から入国して譙城に拠ると、李檦は行台の樊子鵠に従って元樹を撃破し、右将軍に転じた。

534年孝武帝関中に入ると、李檦は大都督の元斌之の下で従軍し、高歓と成皋で戦った。敗れて、元斌之とともに梁に逃れた。梁の武帝により賓客として遇されたが、後に逃げ帰った。535年、西魏の文帝が立つと、撫軍将軍に任ぜられ、晋陽県子に進んだ。まもなく宇文泰の下で帳内都督となった。従軍して弘農を落とし、沙苑で東魏軍を破った。短躯のため、馬に乗ると鞍と甲のあいだに身が隠れるほどであり、小児と侮られたが、果敢な戦いぶりで戦果を挙げて宇文泰を感嘆させた。功績により爵位は公に進んだ。まもなく宇文貴に従って潁川で東魏の将の任祥・堯雄らと戦い、これを破った。長安に召し出されて太子中庶子となった。543年邙山の戦いに出陣し、持節・大都督に転じた。547年、車騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。李弼の下で稽胡を討ち、功績により幽州刺史に任ぜられた。549年、驃騎大将軍・開府儀同三司に上った。552年趙貴の下で柔然を討ち、功績第一として封山県公に改封された。557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍に進んだ。559年豆盧寧の下で稽胡を討ち、勝利をおさめて凱旋した。汝南郡公に進んだ。総管延綏丹三州諸軍事・延州刺史として出向した。564年、延州で死去した。恒朔等五州刺史の位を追贈された。

子がなく、李弼の子の李椿が後を嗣いだ。

伝記資料編集