李 源国(イ・ウォングク、韓国語이원국メキシコ名:エルネスト・カルロス(Ernest Carlos)、1948年5月10日 - )は、大韓民国ソウル特別市出身[注 1]の元プロ野球選手投手)。現在はメキシコ国籍。右投げ右打ち。日本プロ野球NPB)での登録名の読みは日本語読みの「り げんこく」[3][2]

李 源国(イ・ウォングク)
Lee Won-Kuk
基本情報
国籍 メキシコの旗 メキシコ
出身地 大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
生年月日 (1948-05-10) 1948年5月10日(75歳)
身長
体重
185 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1966年
初出場 NPB / 1967年8月19日
KBO / 1983年
最終出場 NPB / 1967年8月19日
KBO / 1983年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
イ・ウォングク
各種表記
ハングル 이원국
漢字 李源國
発音: イ・ウォングク
日本語読み: り げんこく
英語表記: Lee Won-Kuk
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経歴 編集

1948年、韓国に生まれる。

京城中央高校より、1966年日本へ渡り、東京オリオンズ[注 2]へ入団・プロ入り。重い速球と角度のよいカーブが武器。1967年8月19日の対阪急ブレーブス戦に登板し1回と1/3イニングを投げ2連打2失点したのが、日本での唯一の登板であった[4][注 3]。同年限りで東京オリオンズを退団[注 4]

1968年に、アメリカ合衆国へ渡り、サンフランシスコ・ジャイアンツと契約して、1970年までマイナーリーグで過ごす。

1972年よりリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルへ移り、1982年までに通算149勝128敗8セーブの成績をあげる。その間にメキシコ国籍も取得し、メキシコ名をエルネスト・カルロス(Ernesto Carlos)とした。リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルでは殿堂入り候補ともなっているほどの大活躍をした。

1983年に、韓国へ渡り、1億5000ウォンという高額年俸で、MBC青龍に入団したが、8試合で1勝1敗と期待された成績を残すことができず、メキシコに帰国した。

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1967 東京 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 7 1.1 2 0 1 0 0 0 0 0 2 2 13.50 1.67
1983 MBC 8 7 1 0 0 1 1 0 -- .500 171 38.2 46 1 14 0 2 6 25 19 4.42 1.55
NPB:1年 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 7 1.1 2 0 1 0 0 0 0 0 2 2 13.50 1.67
KBO:1年 8 7 1 0 0 1 1 0 -- .500 171 38.2 46 1 14 0 2 6 25 19 4.42 1.55

背番号 編集

  • 29 (1966年 - 1967年、1983年)[6][7]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 参考:
    • 「韓国」と明記[1][2]
  2. ^ 1969年より「ロッテ・オリオンズ」、1992年より「千葉ロッテマリーンズ」。
  3. ^ 参考:
    • 日本プロ野球の一軍公式戦唯一の登板であったことは、次の資料も参照[2]
  4. ^ 参考:
    • 1966年から1967年まで東京オリオンズに在籍したことは、次の資料を参照[1][2][5][6][7]

出典 編集

  1. ^ a b 『週刊ベースボールONLINE』内プロフィールを参照。
  2. ^ a b c d 『日本プロ野球歴代全選手写真名鑑』(『B.B.MOOK』1144。2015年4月15日発売、ベースボール・マガジン社発行。コード:ISBN 978-4583622217)P222「李 源国」
  3. ^ 日本野球機構公式サイト内プロフィールを参照。
  4. ^ ベースボールマガジン、2011年9月号、P104
  5. ^ 検索結果:李源国 - 日本野球機構公式サイト内プロ野球在籍者名簿
  6. ^ a b 日本プロ野球80年史』記録編に収録された、毎日オリオンズ→毎日大映オリオンズ→東京オリオンズ→ロッテ・オリオンズ→千葉ロッテマリーンズの年度別監督・コーチ・選手一覧表を参照。
  7. ^ a b 1965年~1969年所属選手 - 千葉ロッテマリーンズ公式サイトより、1965年から1969年までの監督・コーチ・選手一覧表 ※1966年のみ「季 源国」と誤記

参考資料 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集