李 豊(り ほう、? - 嘉平6年(254年)2月22日)は、中国三国時代の政治家。字は安国[1]雍州馮翊郡東県の人[2]。父は李義[3]。子は李韜李婉[4]

李豊

中書令
出生 生年不詳
雍州馮翊郡東県
死去 嘉平6年2月22日
拼音 Lǐ Fēng
安国
主君 曹丕曹叡曹芳
テンプレートを表示

生涯編集

17歳の頃からの周辺で清廉潔白、人物眼があるとの評判を得る。黄初年間、父の縁故で軍に入り、許昌に住むと、名声はさらに高まった。

明帝曹叡の時代には黄門郎となる。当時、から降伏してきた者に対して曹叡が「江東では、中国(魏)の名士は誰が評判か?」と尋ねると、降伏者が「李安国(李豊)という者がいるとの評判です」と答えるほど、李豊の評判は響き渡っていた。その後、騎都尉・給事中に転任した。

景初3年(239年)に曹叡が亡くなると永寧太僕となるが、名声が先行していると見られ、用いられることは少なかった。正始年間に侍中・尚書僕射に転任した。

曹爽一党が政権を掌握し司馬懿らを排斥すると、李豊はどちらにもつかず離れずの態度を取った。曹爽が誅殺された後の嘉平4年(252年)、中書令の官に任じられ、皇帝曹芳の側近となった。

李豊は、司馬懿の後を継いだ司馬師の親任を受けていたが、太常夏侯玄に心を寄せ、光禄大夫張緝と結託し、クーデターを図った。しかし嘉平6年(254年)2月22日[5]、その計画は司馬師に露呈し、李豊・夏侯玄・張緝らは処刑された。『三国志』魏書夏侯尚伝の注に引く『魏氏春秋』によると李豊の最期は、司馬師の悪逆を謗ったためその怒りを買い、刀の柄によって腰を叩かれ、殺害されたという。

早くから名声を集めていたが、杜畿傅嘏からは終わりを全うしないことを予測された。後年その予測が的中したことは、彼らの人物眼を称える逸話となっている[6]

一族編集

父の李義は寒門の出身だが[7]、魏の衛尉にまで栄達。李豊が若くして名声を集めたことを嫌っていた。

息子の李韜は斉長公主(曹叡の娘)の夫。列侯・給事中の官にあり、父と共にクーデターに関与した。発覚後は公主の夫という地位を考慮され処刑ではなく、獄中での自殺を許された。また、斉長公主との3人の子は処刑を免れた。娘の李婉は賈充の妻だったが、父に連座して流罪となった[4]

弟の李翼・李偉は郡の太守を歴任した。李偉は酒に溺れ新平郡扶風郡の政治を混乱させたという。李翼は兄のクーデター発覚時、兗州刺史の官にあった。妻からは呉へ逃げることを勧められたが、子の命を守るためそれを拒んで刑に服した。李翼の2人の子は処刑を免れ、その1人李斌は西晋河南尹にまで昇った。

出典編集

  • 『三国志』魏書 巻9 夏侯尚伝附 夏侯玄伝

脚注編集

  1. ^ 『三国志』魏書 裴潜伝注『魏略』では宣国
  2. ^ 裴潜伝注『魏略』記載の父の本籍地。
  3. ^ 『三国志』魏書 杜畿伝注『傅子』では李恢蜀漢の同名人物(李恢)とは別人。
  4. ^ a b 晋書』賈充伝。
  5. ^ 『三国志』魏書 斉王(曹芳)紀。
  6. ^ 『三国志』魏書 杜畿伝及び傅嘏伝の注に引く『傅子』。
  7. ^ 裴潜伝注『魏略』。