村山喜一
村山 喜一(むらやま きいち、1921年〈大正10年〉7月21日 - 1996年〈平成8年〉8月16日)は、日本の政治家。
村山 喜一 むらやま きいち | |
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生年月日 | 1921年7月21日 |
出生地 | 鹿児島県姶良郡蒲生町 |
没年月日 | 1996年8月16日(75歳没) |
出身校 | 台南師範学校卒業 |
前職 | 鹿児島県評事務局長 |
所属政党 | 日本社会党 |
第58代 衆議院副議長 | |
在任期間 | 1990年2月27日 - 1993年6月18日 |
衆議院議長 | 櫻内義雄 |
選挙区 | 鹿児島県第2区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 |
1960年 - 1969年 1972年 - 1993年 |
来歴・人物
編集鹿児島県姶良郡蒲生町(のちの姶良市)にて生まれた。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)卒業[1]。1941年に台南師範学校卒業後、小学校教員、鹿児島県評事務局長、鹿児島県議会議員を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党より立候補し当選、以後当選10回。
党内では和田博雄 – 勝間田清一 – 石橋政嗣の派閥に所属する。1982年2月、飛鳥田一雄委員長の下で国会対策委員長に就任、その後馬場昇書記長下ろしに伴う役員改選により、同年12月副委員長となる。
1990年、衆議院副議長に就任。1993年、政界引退(後継者の浜田健一が当選[2])。1996年8月16日死去。享年75。
衆議院副議長在任中の議会運営には公正な姿勢で臨み、1992年のPKO国会においては、制限時間を越えて発言を続けようとした菅直人(当時社会民主連合所属)に対し、衛視に命じて強制的に降壇させたりもした。
関連項目
編集脚注
編集- ^ 関東龍門会沿革 2019年4月29日一覧
- ^ 濱田健一さんの政界引退について 2019年4月29日閲覧
議会 | ||
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先代 安井吉典 |
衆議院副議長 第58代:1990年 - 1993年 |
次代 鯨岡兵輔 |
党職 | ||
先代 田邊誠 |
日本社会党国会対策委員長 第13代 : 1982年 |
次代 山口鶴男 |