松平忠刻 (桑名藩主)
松平 忠刻(まつだいら ただとき)は、江戸時代中期の大名。伊勢国桑名藩2代藩主。官位は従四位下・下総守。奥平松平家4代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保3年9月11日(1718年10月4日) |
死没 | 天明2年12月27日(1783年1月29日) |
改名 | 岩吉(幼名)、清種(初名)、忠刻 |
別名 | 主膳(通称) |
戒名 | 竜光院殿天山宗見大居士 |
墓所 | 東京都台東区谷中の天眼寺 |
官位 | 従四位下下総守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 伊勢桑名藩主 |
氏族 | 奥平松平家 |
父母 | 松平忠雅、永林院 |
兄弟 |
蜂須賀宗純、忠刻、井伊直存、忠張、 清性院、松平武元正室、津也、 真田幸詮正室、光相院ら |
妻 | 酒井忠寄娘清暁院、純性院 |
子 | 忠泰、忠啓、律姫ら |
生涯
編集享保3年(1718年)9月11日、初代藩主・松平忠雅の三男(庶子)として江戸浅草の鳥越下屋敷にて誕生。幼名は岩吉、初名は清種(きよたね)。
世子となっていた嫡出の弟・忠張が早世したため、元文3年(1738年)6月28日に庶出ながら世子に指名され[1]、諱を忠刻に改める(奥平松平家の家督を継ぐものだけが冠する「忠」の字を与えられた[2])。延享3年(1746年)に父が死去したため、家督を継いだ。
しかし藩政においては、宝暦5年(1755年)に桑名城下が大火に見舞われ、宝暦10年(1760年)と明和4年(1767年)には洪水に遭い、救済のために幕府から借金をするなど、多難続きで藩財政の悪化を招いた。明和5年(1768年)には、家臣の知行を半知借上している。
明和8年(1771年)4月8日に病に倒れたため、幕府に対して隠居を申し出て、6月14日に家督を次男・忠啓に譲った。天明2年(1782年)12月27日に死去、享年65。
系譜
編集父母
- 松平忠雅(父)
- 永林院 ー 関口氏、側室(母)
正室
- 清暁院 ー 酒井忠寄の娘
側室
- 純性院 ー 市原氏
子女