桑山一尹
桑山 一尹(くわやま かずただ)は、江戸時代前期の大名。大和国新庄藩4代藩主。官位は従五位下・美作守。大和新庄藩桑山家5代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 正保2年(1645年) |
死没 | 天和3年閏5月11日(1683年7月5日) |
改名 | 三之助(幼名)、一尹 |
戒名 | 東京都港区南麻布の天真寺 |
官位 | 従五位下美作守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱、綱吉 |
藩 | 大和新庄藩主 |
氏族 | 桑山氏 |
父母 | 桑山一玄、仙石忠政娘 |
兄弟 |
一尹、一慶、玄乃、一英、一規、亮忠、 亮観、内藤忠通正室、河野通矩室、 岡部行隆養女、設楽貞高室、源水院 |
妻 | 松平忠弘娘 |
子 | 春日某室、佐野某室 |
生涯
編集正保2年(1645年)、3代藩主・桑山一玄の長男として誕生。正室は松平忠弘娘。
延宝5年(1677年)8月23日、父の隠居により家督を継ぐ。このとき、弟の一慶に1200石、一英に800石を分与したため、新庄藩は1万1000石となった。
天和2年(1682年)5月、寛永寺において4代将軍・徳川家綱の法会のとき、院使饗応役を命ぜられていたが、勅使に対して不敬があったとして、5月26日に改易された。他説では、陸奥国八戸藩主・南部直政と対立していたことが要因だったとも言われている(直政は非常に学識が高いことから家綱の覚えがめでたく、一尹の死後ごく短期間ではあるが、外様大名としては異例の側用人に取り立てられる)。その後は身柄を弟の一慶や一英に預けられ、終身扶助として米300俵を与えられた。
天和3年(1683年)閏5月11日、父に先立って死去した。享年39。