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橘荘(たちばなのしょう)は、中世下総国海上郡にあった荘園。現在の千葉県香取郡東庄町付近に相当。東荘(とうのしょう)とも呼ばれる。

概要編集

久安2年(1146年8月10日の平常胤寄進状に「相馬・橘両郷」とみえ、千葉常胤が父常重から相馬郷とともに伝領した私領であったとみられるが、保延2年(1136年7月15日下総守藤原親通が、公田官物未進を口実に常重の身柄を拘束し、両郷を親通に譲渡するという文書を作成、常重・常胤父子に署判を強いて奪い取り、同年11月13日二男親盛に譲られた。この事件が決着しないまま、平常澄が御厨支配を主張、この間隙をぬって源義朝が常重に圧力をかけて奪い、天養2年(1145年)3月、伊勢内宮に寄進している。その後、常胤は未納の官物として上品八丈絹・砂金・上馬などを国庫に弁進し、久安2年(1146年)4月には国衙から相馬郡司に補任され、父にならい相馬御厨を内宮に寄進したが、当郷のみ返付されなかった。

治承4年(1180年石橋山の戦いに敗れた源頼朝が房総に逃れた際、常胤の六男胤頼の進言[1]により、藤原親通の孫親政を討ち取った[2]ことから勢いを得て、様子見していた上総広常も参陣し治承・寿永の乱を制する。その後、胤頼に譲られ鎌倉時代を通して当荘は東氏に相伝された。

吾妻鏡文治2年(1186年3月12日条の「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」には木内荘とともに二位大納言領とみえ[3]、藤原親通の孫親政が皇嘉門院判官代であることから、この二位大納言とは、皇嘉門院(藤原聖子)の猶子九条兼実の弟である藤原兼房と推定される。

建久8年(1197年)の香取神宮遷宮に際しては作料100石を負担している。

脚注編集

  1. ^ 安房国を出て、上総国に赴かしめ給う。所從の精兵三百餘騎に及ぶ。而るに廣常、軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。今日、千葉介常胤子息親類を相具し、源家に參らんと欲す。爰に東六郎大夫胤頼父に談りて云く、當國目代平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に參らば、定めて凶害を插むべし。先ずこれを誅すべきかと。……以下略、(『吾妻鏡』治承4年9月13日条)
  2. ^ 下総国千田荘領家判官代親政は、刑部卿忠盛朝臣の聟なり。平相国禪閤に其の志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。之に依って、常胤孫子小太郎成胤相戰う。遂に親政を生虜らん。…(『吾妻鏡』治承4年9月14日条)
  3. ^ 『吾妻鏡』文治2年3月12日条「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」

参考文献編集

  • 小笠原長和 監 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 平凡社、1996年、ISBN 4-582-49012-3、554頁

関連項目編集