武藤 富男(むとう とみお、1904年明治37年)2月20日 - 1998年平成10年)2月7日)は、満州国日本官僚教育者キリスト教牧師伝道師)。恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長なども歴任した。

息子・武藤一羊ベ平連出身の社会運動家でピープルズ・プラン研究所創設後、現在は運営委員。

来歴編集

人物編集

[1]中村妙子によると一高の学生時代より大森教会会員で、法務畑に入っても在京中は礼拝を欠かさず出席していた。教会の親睦会には玄人はだしの落語と漫談で周囲を笑わせていた。満州国では甘粕正彦とも親交が深く、甘粕を満映の理事長に推薦した。満州国のメディア統括のトップに立っていたとき朝日新聞が満州の市場に参入しようとすると協力する姿勢を見せた。関東軍は古野伊之助正力松太郎との関係を重視する東条英機の意向に反する(「関東軍の司令の首が飛ぶ」)から止めた方がよいと注意したが、「帰国後に出世するためには新聞にも恩を売っておこう」とは本人の弁。国家と縁を切ってからは「全身全霊、世界の大きな流れとの関係で生き、大正時代につくられた理想主義を貫こうとした」(武藤一羊)。

1947年東京市ヶ谷戦犯法廷に証人として出廷し、日本人戦犯容疑者の弁護をおこなったとき、武藤は「満州国政府は宗教を圧迫しなかった、我々はヒューマニズム(人道)に基いて満州建国をやった、という二つのことを立証する意図」を方針に、被告たちを弁護した。[1]

東京裁判(極東国際軍事裁判)において、天皇をかばって絞首刑になった東條英機を評して、「忠義とか臣節とかいうものを超えて、人間的な美しさを示して居ります」と言った。

批判編集

在日韓国人で経営学者の裴富吉(大阪産業大学教授など)は、1951年刊の武藤富男の著書『再軍備を憤る-追放者の告白-』(文林堂)を、「戦時体制期に満洲国で武藤富男が活躍したその姿を,敗戦後に武藤自身が狡猾にもすり替え,もみ消そうとした言論」と批評し、昭和天皇崩御のときに天皇制を考えるシンポジウムを行った明治学院大学に国粋主義者が抗議活動を行ったことを、「そうした現代的な迫害行為をうけた明治学院は,過去〔戦後〕に理事長職をはたしてきた人物,しかも,同学院の発展のために顕著な寄与をなした武藤富男が,実は,このたび明治学院に迫害をくわえた勢力・組織・集団・人物たちと,時空を超えてはいるものの,そして攻守ところを替えてはいるものの,「同じ地平に立っていた」という歴史的な事実に接し,恐らく「いうべきことばもなかったもの」と指摘し、「戦争の時代,満洲国政府の高官の地位に就き,植民地的カイライ(傀儡)国家「満洲国」のお先棒担ぎをしてきた人物でもあったという事実に,いままで明治学院の関係者は気づいていなかった。」と批判している[2]

明治学院大学自体は、1989年に昭和天皇崩御のおりに、天皇制を考えるシンポジウムを行い、1995年に戦争責任の告白と謝罪を行っている。

関連図書編集

  • 穂積与四郎『評伝 武藤富男』コイノニヤ社、1990
  • 武藤富男『社説三十年 わが戦後史 第1部 昭和21年-昭和30年』キリスト新聞社、2016 復刊
  • 貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア――ポスター・絵はがき・切手吉川弘文館、2010

脚注編集

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  1. ^ 武藤富男の告白”. centuryago.sakura.ne.jp. 2019年12月15日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集