毛 岸青(もう がんせい/マオ・アンチン、1923年11月23日 - 2007年3月23日)は、毛沢東楊開慧の間に生まれた次男。

毛岸青
プロフィール
出生: 1923年11月23日
死去: 2007年3月23日
出身地: 中華民国の旗 中華民国湖南省長沙
各種表記
繁体字 毛 岸青
簡体字 毛 岸青
拼音 Máo Ānqīng
和名表記: もう がんせい
発音転記: マオ・アンチン
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生涯 編集

毛岸青は、1923年、湖南省長沙市にある湘雅医科大学付属医院(現:中南大学付属湘雅医院)にて出生。母は1930年に国民党軍によって処刑され、上海に避難。当時、父の毛沢東は現地指導のため江西省井崗山にいた。兄弟は一時期路上生活を送っており、このとき警察官に激しく暴行を受けたことがきっかけとなり、のちに精神疾患を発症したとされている。

岸青と兄・岸英は1936年にパリに送られ、その後モスクワへと移る。1940年代にモスクワ東部のイヴァノヴォにあるインタードームで約6年生活。ソ連軍の一員として独ソ戦に参加したと伝えられ、1947年までソ連に滞在し、帰国後は中国共産党に入党した。

兄・岸英は朝鮮戦争に従軍していた1950年、前線でチャーハンの調理中、立ち昇った煙を捕捉されて爆撃を受け、戦死した[1]。このころから岸青の精神状態は悪化し、精神分裂病を発症。かなりの期間を精神科病院で過ごすようになった。大連で療養生活を送ったと伝えられているが、軍事科学院でロシア語の翻訳の仕事に従事していたともいわれる。

1960年に兄の妻、劉思斉の妹である邵華と結婚。当時、邵華はまだ北京大学の学生だった。

1970年、一人息子の毛新宇が生まれる。毛新宇は毛沢東の唯一の嫡孫(嫡男の嫡男)として知られるが、毛沢東は孫に関心がなく、一度も会おうとしなかったという[2]

2007年3月、北京市にある人民解放軍三〇一医院で死去、享年82。

家族 編集

毛沢東には子が10人いたが、成人したのは毛岸英、毛岸青、李敏李訥の4人だけであり、うち男子は毛岸英と毛岸青のみだった。

  • 父 毛沢東
  • 母 楊開慧
    • 兄 毛岸英
    • 弟 毛岸龍(4歳で死亡)

出典 編集

  1. ^ 「毛沢東の長男はチャーハンを作っていて爆死」…中国共産党が“修正”したい不都合な史実”. Courrier Japon (2021年7月5日). 2021年7月6日閲覧。
  2. ^ 党代表名簿から消された「毛沢東の孫」の光と影”. 日経ビジネス (2017年9月29日). 2021年7月6日閲覧。

関連項目 編集