水谷正村

戦国時代から安土桃山時代の武将。「結城四天王」の一人。従五位下・伊勢守。常陸下館城及び久下田城主。水谷治持の嫡男。水谷氏17代。
水谷政村から転送)

水谷 正村(みずのや まさむら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。「結城系図」では政村[1]結城氏の家臣。蟠龍斎(はんりゅうさい)の名でも知られている。「結城四天王」の一人。常陸国下館城及び久下田城[2]主。兵部大輔[1]

 
水谷 正村 / 水谷 政村
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永4年1月17日1524年2月21日
死没 慶長3年6月20日1598年7月23日
改名 正村、蟠龍斎(号)
別名 政村
官位 兵部大輔従五位下伊勢守
主君 結城政勝晴朝
氏族 水谷氏
父母 水谷治持
兄弟 正村勝俊
結城政勝娘・小藤姫
結城晴朝正室
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略歴

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水谷氏は結城氏と同じく藤原北家秀郷流の後裔と伝わる。

大永4年(1524年)、結城氏の家臣であった水谷治持の嫡男[3]として誕生した。

結城氏の麾下として下館城主であり、主君・政勝の娘婿となり武勇に優れたことから「結城四天王」に数えられた。また、北に領地を接する下野宇都宮氏との間に幾多の戦いを繰り広げた。最前線である下野国との国境に久下田城を築き、自らが城主となっていくつもの戦功を挙げた。久下田城下では、真岡近郷で有名であった木綿織を奨励し、勤行川の舟運による真岡木綿の物流網の開拓など、後の下野久下田及び常陸下館の発展の基礎を築いた。

天文13年(1544年)、宇都宮氏の中村城を攻撃し、城主の中村玄角を討ち取り落城させている。同14年(1545年)1月28日、政勝の娘が正村に嫁いだ[1]

永禄9年(1566年3月10日には禁裏御料所回復の功により山科言継の推挙で従五位下伊勢守に叙任された。永禄12年(1569年)に弟・勝俊に家督を譲った後は出家して蟠龍斎と名乗った。

その後、武蔵国を足掛かりに下総国北部まで侵攻してきた後北条氏と対抗するために、結城氏と佐竹氏徳川氏那須氏との連携を図った。天正13年(1585年)の下野田野城[4]攻略では、落城間際に宇都宮家臣笠間氏から派遣された城主の羽石時政が最後の突撃を仕掛けた時、蟠龍斎と羽石の間で一騎討ちとなり、蟠龍斎がこれを討ち取ったと伝えられている。

天正14年(1586年)4月、正村は宇都宮国綱の家臣今泉泰光上三川城へ攻め込み、国綱、芳賀高氏、長山通兄、中村時長軍と対峙したが敗退した。結城晴朝は中村領の一部を宇都宮領とする条件で和睦を申し出た[5]。7月には病気であった結城晴朝の名代として、佐竹義重宇都宮国綱による壬生氏討伐に参加している[6]

豊臣秀吉小田原征伐後は、豊臣政権により結城氏から独立した大名とされ、後の下館藩の基礎を築いた。

慶長3年(1598年)、死去した。

関八州古戦録』巻三の記述では、左眼が重瞳(眼球に2つ瞳孔がある症例)であり、「金骨の相」の持ち主として記されている。

脚注

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  1. ^ a b c 結城市史編さん委員会 1977, p. 675.
  2. ^ 現在の茨城県筑西市
  3. ^ もしくは水谷勝吉または水谷正吉の子で治持の養子。
  4. ^ 現在の栃木県益子町
  5. ^ 栃木県立図書館所蔵・下野史談第1巻第6号P14-P15「中村郷土史」
  6. ^ 竹井英文「天正十三年・十四年の下野国の政治情勢-関連資料の再検討を通じて-」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1

参考文献

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先代
水谷治持
水谷氏当主
1524~1598
次代
水谷勝俊