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江戸 重長(えど しげなが)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将御家人武蔵江戸氏2代当主。

 
江戸重長
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:江戸太郎
墓所 東京都世田谷区 慶元寺
幕府 鎌倉幕府
主君 伊勢平氏源頼朝
氏族 武蔵江戸氏
父母 父:江戸重継、母:関政家娘(秀郷流太田氏)
兄弟 重長親重重通重宗畠山重能
藤田政行娘(猪俣党
忠重朝重河野通有

生涯編集

治承4年(1180年8月17日源頼朝の挙兵に対し、平家方で同族である畠山重忠が、源氏方の三浦氏と合戦となると、重忠の要請に応じて一族の総領家である河越重頼と共に武蔵国武士団数千騎を率いて出陣する。三浦氏の本拠である衣笠城を攻め、8月26日、当主の三浦義明を討って落城させた(衣笠城合戦)。

吾妻鏡9月28日条によると、頼朝は秩父一族の切り崩しを図って重長に使いを送り、「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦に及んだのはやむを得ない事だが、以仁王令旨の通り(頼朝に)従うべきである。畠山重能(重忠の父)・小山田有重が在京している今、武蔵国は汝が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上せよ」と伝える。一方で翌29日条には重長が景親に味方して今になっても来ないので、やはり追討すべきとして同じ秩父氏で頼朝方に付いていた葛西清重に、大井の要害に重長を誘い出し、討ち取るように命じている。

10月2日、勢力を回復した頼朝軍が武蔵に入ると、4日、重長は畠山重忠、河越重頼と共に頼朝に帰伏する。翌日、重長は頼朝から武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられた。

文治5年(1189年7月奥州合戦に従軍、建久6年(1195年3月東大寺落慶供養の頼朝上洛に供奉。

同族の河越重頼、畠山重忠は鎌倉幕府初期における内部の勢力争いによって滅ぼされたが、重長は一族の重鎮として幕府に仕え、子孫も長く繁栄した。

江戸氏の菩提寺である東京都世田谷区慶元寺に、重長の供養塔である五輪塔と銅像がある。

出典編集

  • 萩原竜夫 『江戸氏の研究』 名著出版〈関東武士研究叢書 第1巻〉、1977年。ISBN 4626015204
  • 東京都大田区大田区史編さん委員会編 『大田区史』上巻 東京都大田区、1985年。ASIN B000J6QW98全国書誌番号:86017636
  • 北区史編纂調査会編 『北区史』通史編中世 東京都北区、1996年。全国書誌番号:98046733
先代:
江戸重継
武蔵江戸氏歴代当主
次代:
江戸忠重