池宗墨
池 宗墨(ち そうぼく)は中華民国の政治家・教育者。冀東防共自治政府の秘書長で、後に行政長官代理となった。別号は尚同[1]。
池宗墨 | |
---|---|
『冀東政権の正体』(1937年) | |
プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒16年) |
死去: |
1951年5月20日 中国北京市 |
出身地: | 清浙江省温州府平陽県 |
職業: | 政治家・教育者 |
各種表記 | |
繁体字: | 池宗墨 |
簡体字: | 池宗墨 |
拼音: | Chí Zōngmò |
ラテン字: | Ch'ih Tzung-mo |
和名表記: | ち そうぼく |
発音転記: | チー ゾンモー |
事績
編集初期の活動
編集日本に留学し、東京高等師範学校、明治大学を卒業している。帰国後は、浙江省首席督学官、北京高等師範学校教授、尚志大学教授、北京中学校長、廈門師範学校校長などを歴任した。1925年(民国14年)、中国銀行鄭家屯分行行長に任ぜられる。さらに通成紡績公司経理も担当した[2][3]。
冀東防共自治政府での活動
編集1935年(民国24年)、池宗墨は、河北省の薊密区行政督察専員公署秘書長に任ぜられた。11月24日、冀東防共自治委員会が成立した際、委員長・殷汝耕以外の委員8人の1人に列せられている[4]。翌月に冀東防共自治政府が成立すると、政務長官・殷汝耕と同郷の誼により、池は秘書長[5]に就任した[2][3]。1936年(民国25年)4月、満洲国との修好使節として新京に向かった[6]。
1937年(民国26年)7月29日、通州事件が勃発、殷汝耕も反乱軍に一時捕らえられる事態が起きた。殷は混乱の中で辛うじて脱出、北平に逃げ込んだが、反乱軍との関係を日本軍に疑われて拘束されてしまう。そのため同月31日、公務で不在だったため難を逃れていた池宗墨が、政務長官代理に任命された[7]。池は、通州事件の事後処理にあたり、また、政府所在地を通県から唐山に移した[8]。
晩年期の活動
編集翌1938年(民国27年)1月30日、冀東防共自治政府は王克敏が率いる中華民国臨時政府に併合され、領域は河北省に編入される。池宗墨は2月5日に臨時政府行政委員会参議(特任官)として起用された[9]。しかし極めて短期間で離任し(あるいは、実際には就任せず)、これを最後に池が行政官の地位に返り咲くことは無かった模様である[10]。4月には北支産金株式会社の子会社である河北採金有限股份公司で董事長になる[11]。汪兆銘政権下では1945年(民国34年)5月に労工協会理事長を務めた[12]。
日本敗北後の1945年(民国34年)12月5日、池宗墨は狂人を装うも虚しく潜伏先の北平で逮捕されている。まもなく国民政府から審問を受け、池は漢奸の罪により極刑の判決を下されたが[13]、実際には国民政府統治下での執行は無かった。中華人民共和国成立後の1951年5月20日、北京市人民政府から改めて反革命罪などで死刑判決を言い渡され、直ちに執行された。享年62[12][14]。
人物像
編集池宗墨は孔孟思想と王道政治論の信奉者であり、徹底した中国国民党嫌いであったとされる。三民主義や孫文(孫中山)を非難・罵倒し、また、清末の政治家曽国藩を尊敬していた、とされる。殷汝耕同様、日本語に巧みであった[15]。
池宗墨は徒に政治的策動を行ったり、宣伝的言辞を弄したりする人物として日本陸軍中央からも警戒されており、昭和12(1937)年5月には陸軍次官の梅津美治郎が支那駐屯軍(天津軍)参謀長・橋本群にその旨を打電した模様である[16]。永田美那子(元・満洲国婦女会常任幹事、関東軍第二課嘱託)に至っては池を「危険人物」とみなし、その情報を北京の日本軍司令部に流したが、逆に永田が軍側から叱責されたという[17]。
殷汝耕とは同郷の誼があったが、冀東防共自治政府成立後になると両者の関係は悪化していた。上述のように、通州事件直後に殷が現地日本軍から事件張本人と猜疑されたことがあったが、今井武夫(当時、大使館付武官補佐官)によれば、池宗墨が政務長官の地位を得ようと野心を抱き、策謀をめぐらしたことに原因があったとされる[18]。
注
編集- ^ 「冀東防共自治委員会成立」『外交時報』外交時報社76巻6号通号745号、昭和10年(1935年)12月15日、外交時報社、194頁。
- ^ a b 徐主編(2007)、404頁。
- ^ a b 高木(1937)、136頁。
- ^ 当初は「池尚同」という人名で呼ばれていたが(「冀東防共自治委員会成立」『外交時報』76巻6号通号745号、昭和10年(1935年)12月15日、外交時報社、194頁)、冀東防共自治委員会成立宣言では「池宗墨」の表記となっている(高木(1937)、20-24頁)。池以外の残る7人の委員は、王厦材・張慶余・張硯田・李海天・趙雷・李允聲・殷体新。自治委員会には自治政府の「秘書長」のような地位は無く、民政・財政・建設・教育・外交・秘書・保安の7処のみが置かれた。
- ^ 秘書長は「政務長官の政務処理を補佐する」(「冀東防共自治政府組織大綱」第6条)ものとし、各処(後に庁も)を統括する地位である。
- ^ 『外交時報』78巻3号通号754号、1936年5月1日号、外交時報社、192-193頁。
- ^ 「冀東長官、更迭す 池宗墨氏、代理に就任」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)8月1日夕刊、1面。なお12月ごろになると「代理」との表記が報道から消滅する例もあったが、正式に就任したかどうかは不明である。
- ^ 「池宗墨氏 唐山へ 要人を同伴」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)8月10日夕刊、1面。
- ^ 「池氏参議任命発令」『東京朝日新聞』1938年2月7日夕刊、1面。なお、当初は臨時政府議政委員会委員の地位に就くと目されていた(「池氏議政委員に」『東京朝日新聞』1938年2月5日朝刊、2面)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1020頁には臨時政府行政委員会参事の任命状況が記載されているが、池宗墨の名は無い。同様に、冀東防共自治政府以外の同書表にも池の名前は見当たらない。
- ^ 「北支産金社創立」『東京朝日新聞』1938年4月9日朝刊、4面。
- ^ a b 『人民日報』1951年5月23日、第5版。
- ^ 何(2006)。
- ^ 同日に処刑された著名人物としては、張海鵬・張仁蠡・富双英・張仲直などがいる。
- ^ 高木(1937)、135-137頁。
- ^ 「池宗墨の取扱に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004330700、密大日記 第6冊 昭和12年(防衛省防衛研究所)
- ^ 永田(1968)、190頁。
- ^ 今井(1964)、53-54頁。
参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 高木翔之助編『冀東政権の正体』北支那社、1937年。
- 何立波「『華北自治運動』中的冀東偽政権」『二十一世紀』網絡版総第49期、2006年4月
- 永田美那子『女傑一代』毎日新聞社、1968年。
- 今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964年。
冀東防共自治政府
|
---|