澤簡徳
澤 簡徳(さわ かんとく、1830年10月21日(文政13年9月5日) - 1903年(明治36年)10月12日[1])は、幕末の旗本、明治期の内務官僚、裁判官、政治家。外国奉行、福岡県権令、若松県令、貴族院勅選議員。名・幸良、通称・勘七郎[1]。旧名・蔵六[2]。
経歴
編集武蔵国江戸四谷仲殿町で、旗本・澤勝之丞幸得と母本田氏の子息として生まれる。最初の諱は幸良といった。澤家の禄高は600石で、遠祖は源義家という。義家から八世の孫である澤次郎義盛は三河に住んでいたが、数代後関東に赴き、関東管領の上杉憲実に仕えた。やがて後北条氏に仕え、その滅亡後、澤次郎右衛門尉吉縄は徳川家に出仕し幕臣となった[3]。
鉄砲方・井上左太夫に師事し砲術の研究を行う[3][4]。鉄砲玉薬奉行、徒歩頭、講武所頭取、目付、外国奉行などを経て、文久3年9月10日(1863年10月22日)講武所奉行並[5]となり武家官位「左近将監」を名乗った[3]。元治元年6月1日(1864年7月4日)三度目の外国奉行に就任したが、幕府の嫌疑を受け、同月23日(7月26日)に罷免され閉門を命ぜられた[3][6]。慶応4年(1868年)閉門が解かれ謹慎となり、明治元年に赦免され、駿府移住を命ぜられた[3]。同年8月、暇を得て旧領地豊島郡三河島村で帰農し、蔵六と改名した[3][7]。
勝海舟などから熱心な誘いを受け明治政府に出仕し[7]、明治元年12月6日(1869年1月18日)徴士刑法官判事試補に任官[3]。以後、刑部権大丞、同大丞、神祇少祐、同少丞、入間県権令などを歴任[3]。1873年2月7日、福岡県権令に就任[8]。同年6月5日、若松県権令に転任し、1874年9月3日、県令に昇進[3]。1876年5月20日、県令を依願免本官となる[3]。同年5月、五等判事に任ぜられ、大審院詰、大阪裁判所在勤などを務め、1877年6月に廃官となる[3]。同年10月、東京府第四大区区長に就任し、1878年10月、神田区長となり1891年4月まで在任。その間、他区長の不在時に、日本橋区、牛込区、下谷区などの区長を兼務した[3][9]。
1891年12月22日、貴族院議員に勅選され[3]、死去するまで在任[9]。1898年9月20日、神田区長在任時における地方自治発展の功績などにより藍綬褒章が授与された[10]。墓所は青山霊園(1イ11-20)。
栄典
編集親族
編集脚注
編集- ^ a b 『日本人名大辞典』884頁。
- ^ 『明治過去帳』695頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「沢簡徳特旨叙位ノ件」
- ^ 『名士の父母』123頁。
- ^ 『維新史 : 附録』「公武重職補任」88頁。
- ^ 『維新史 : 附録』「公武重職補任」82頁。
- ^ a b 『名士の父母』127頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』962頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』127頁。
- ^ 『官報』第4573号、明治31年9月26日。
- ^ 『官報』第3799号「叙任及辞令」1896年3月2日。
- ^ 『名士の父母』安藤紫陽, 箕輪撫鬣 編 文武堂 明36.5 122頁。
- ^ 清岡 覚子(読み)キヨオカ カクココトバンク
- ^ 東京での関係強化とさらなる発展をNews at IU, 2017年11月2日
- ^ 岡田猛熊『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 原川慶作『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 年表大阪瓦斯(株)『大阪瓦斯五十年史』(1955.10)
- ^ 『岡田式静座法』実業之日本社、1912, p208
- ^ 大槻文彦『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 維新史料編纂会編『維新史 : 附録』文部省、1943年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『日本人名大事典』第3巻、平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(昭和12年刊)の改題複製)。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 安藤紫陽, 箕輪撫鬣編『名士の父母』文武堂、1903年。
- 「沢簡徳特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110133100