河越 兼字(かわごえ かねな、1628年 - 1703年)は江戸時代地下官人有職家

 
河越兼字
時代 江戸時代
生誕 寛永5年(1628年)6月3日
死没 元禄16年(1703年)6月8日
改名 行忠(行久)→賢充
別名 源五郎(通称)、源兼字、兼字王、当兼王、清原賢充、中原賢充
戒名 清浄
官位 従五位上・兵庫頭
氏族 中原朝臣平田家庶流河越氏
広澄流清原朝臣
王氏
源氏
父母 父:河越重忠、母:平田職広女(平田職忠養女)
養父:舟橋相賢河越賢在
兄弟 真継久忠(玄偉)、兼字賢在[1]
兼躬
テンプレートを表示

源兼字兼字王当兼王清原賢充中原賢充とも。ただし源兼字、兼字王、清原賢充の名前は後世の資料にしか見えない。

概要 編集

兼字の実父は河越重忠である。重忠は松永久秀の旧臣である河越宗也(重宗)の子で、宗也は天正5年(1577年)に松永氏が滅亡した際に京都に居住し、娘が平田職忠に嫁いだため平田家で同居したという。宗也の娘と職忠の間に生まれた娘は重忠に嫁ぎ、兼字と河越賢在真継久忠を産んだ[2]

地下家伝』によれば、元来は父方の河越氏を継承していたが、舟橋相賢の養子となり、早世した河越賢在の名跡を相続した。また、伊勢使王・兼久王の名跡も継ぎ、兵庫寮と使王の両方を務めた。寛永20年(1642年)9月20日には正六位上・兵庫大允に叙任され、正保4年(1647年)には名前を源兼字に変更した。明暦元年(1656年)12月15日には兵庫助に転じた。万治3年(1660年)12月24日には従五位下に叙され、兵庫頭に転じた。貞享4年(1687年)8月14日には従五位上に叙された[3]

ただし、青木庸行の『百年以来近代地下諸家伝』では河越賢兼までは中原氏を名乗っていたとされており、実際に史料上では中原朝臣と呼ばれていることから、『地下家伝』の記述には錯誤があると考えられる[4]

なお、「兼字王」の作名は小野隆房小野職行も名乗っている[5]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[1]
  2. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[2]
  3. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[3]』(日本古典全集刊行会、1937年)
  4. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[4]
  5. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[5]