洞泉寺遊廓

大和郡山市にあった遊廓

洞泉寺遊廓[1](とうせんじゆうかく)、または又春廓(ゆうしゅんかく[2])は奈良県生駒郡郡山町字洞泉寺(現・大和郡山市洞泉寺町)にかつて存在した遊廓

概要編集

洞泉寺町は現在のJR郡山駅と近鉄郡山駅に挟まれたほぼ中間にある。1930年に出版された『全国遊廓案内』によると「洞泉寺遊廓は、東岡遊廓よりも建築においても設備においても、その他あらゆる点において1歩を譲っている」とされ[1]、「付近一帯は茶畑」だったという[1]。当時、法律で遊廓での張り店は禁止されていたため、写真で娼妓を選ぶ形式だった。娼妓は住み込み制。

洞泉寺遊廓にあった旧川本楼に残る資料「娼妓名簿」から、新潟、三重、高知など地方から出てきた娼妓が多かったこと、契約年限は最長7年、最短2年であることがわかる。また、就業時の娼妓の年齢層は18〜20歳が64%となつており、多くの人が若いうちに娼妓になっていることがわかる。

歴史編集

近世編集

大和郡山市史によると、近世(17世紀前葉)、水野勝成が雑穀町(ざこくまち)にあった遊廓を自らの居所があった洞泉寺の近くに移す。

奈良奉行所与力 橋本家文書にある『隠し売女御咎の記』によると、18世から末葉から19世紀前葉に、奈良で唯一公認遊廓だった木辻遊廓から洞泉寺町にある煮売茶屋が性売買をしていると訴えられていた。奈良奉行所より木辻遊廓以外の遊所は全廃という触れが出る。しかし実質的には、洞泉寺遊廓では性売買を継続していた。

店舗数については、1797年享保9年)の「和州郡山町鑑」に内町の茶屋(を営むもの)6人と記載があり、同じく1842年(天保13年)には、内町に煮売茶屋5軒と煮売取売茶屋8軒があり、いずれも洞泉寺町の遊廓を指すものと思われる。前述の『隠し売女御咎の記』によると、1859年安政6年)には7軒の煮売屋が摘発されており当時、洞泉寺町には性売買に関わる店が7軒あったことがわかる。

明治編集

佐藤敦子2019「近世〜近代の郡山町と遊所について」によると、1877年明治10年)の「売淫並売妓先貸業取締規則」により、奈良県では奈良市木辻町元林院町に加え郡山の洞泉寺町と東岡町が公認遊廓となる。これにより、木辻遊廓の法的な性売買独占権はなくなる。奈良県警史によると、1879年(明治12年)から1886年(明治19年)には、洞泉寺には11から13軒ほどの店があり、娼妓数は34人から67人程度であった。(一店舗あたり4から5人の娼妓がいた)

大正、昭和期編集

同じく奈良県警史によると、1920年(大正9年)から1940年(昭和15年)には16から17軒の店があり、戦後、赤線が廃止された年の1958年(昭和33年)には18軒の店舗があった。同時期の娼妓数は、154人から198人であり、一店舗あたりにすると10人程度の娼妓がいた。

1890年(明治23年)には、国鉄(現在のJR)郡山駅、1921年(大正10年)に大阪軌道郡山停留所(現在の近鉄郡山駅)が開通し、大阪方面からの遊客が増加し、洞泉寺遊廓の娼妓数も大幅に増加した。

遊興方法、遊興費編集

1930年に出版された『全国遊廓案内』によると、店は写真店で、娼妓は全部送り込み制だった[1]。遊興は時間制、または仕切花制で廻しは取らなかった[1]。1930年当時、費用は1時間遊びが2円位で、仕切りは午前8時から正午までは5円、正午から日没までは7円、日没から1泊して翌朝7時までが12円だった[1]

遺構編集

2020年現在の洞泉寺町に残る旧遊廓の建物は4棟のみとなっている。そのうち、前述の旧川本楼は1999年(平成11年)に大和郡山市によって買い上げられ、2014年(平成26年)に登録有形文化財に登録されて、2018年平成30年)より「町家物語館」[3]として、一般公開されている。

本館は木造3階建てで、棟札から1924年大正13年)に建築されたことが判明している[3]。近代遊廓の屋敷構えを知ることができる貴重な近代和風建築である[3]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f 『全国遊廓案内』354頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年5月30日閲覧。
  2. ^ 山川均『又春廓川本楼娼妓「奴」について』(女性史学29号、2019年)。
  3. ^ a b c 史跡・文化財 登録有形文化財 旧川本家住宅奈良県大和郡山市公式サイト。2020年5月30日閲覧。

参考文献編集

  • 『全国遊廓案内』日本遊覧社、1930年
  • 山川均『又春廓川本楼娼妓「奴」について』女性史学29号、2019年

座標: 北緯34度38分47.0秒 東経135度47分5.0秒 / 北緯34.646389度 東経135.784722度 / 34.646389; 135.784722