浦富村
日本の鳥取県岩美郡にあった村
浦富村(うらとみそん[2])は、鳥取県岩井郡・岩美郡にあった村、自治体である。
うらとみそん 浦富村 | |
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廃止日 | 1925年4月15日 |
廃止理由 |
新設合併 浦富村(初代)、牧谷村 → 浦富村(2代) |
現在の自治体 | 岩美町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陰地方) |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 岩美郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,874人 ([1]、1920年) |
隣接自治体 | 牧谷村、田後村、本庄村、大岩村 |
浦富村役場 | |
所在地 |
鳥取県岩美郡浦富村 (浦富村牧谷村組合役場) |
座標 | 北緯35度35分09秒 東経134度19分41秒 / 北緯35.585972度 東経134.328097度座標: 北緯35度35分09秒 東経134度19分41秒 / 北緯35.585972度 東経134.328097度 |
特記事項 | 座標は現在の町浦富公民館位置 |
ウィキプロジェクト |
概要
編集現在の岩美町浦富(うらどめ)に相当する。北は日本海に面し、南は沖積平野が広がった海岸部に位置した。
浦富は「浦住」や「浦留」とも書いた。浦留には船着き場の意味、また浦富は浦で繁栄するという意味と伝えられる[1][3]。
藩政時代には鳥取藩領の岩井郡浦住保(浦富保)に属する本浦住村(浦富村)と町浦住村(町浦富村)があった[1]。
本浦住は浦富海岸部の呼称であり、浜浦住とも言った。往古は磯部とも言われ、「浦」「磯」共に海岸を表す言葉である。横穴式古墳とその出土品から6、7世紀頃から集落が発生したと考えられる。江戸期まで田後という出村があったが明治に分村した[1]。
町浦住は西の本浦住と東の牧谷の間に位置し、陣屋や武家屋敷が作られて新しく形成された村である。後に町浦富と言い換えられて現在も用いられている呼称である。浦富村合併後はその中心部を占めていた[1]。
天正9年(1581年)から慶長5年(1600年)までの20年間、垣屋光成・垣屋恒総が城主の桐山城城下町であった[3]。
明治以降は海岸部交通上の要地を占め、各種物資の大集散地として賑わった[1]。
沿革
編集- 寛永9年(1632年) - 鵜殿氏の領地となる[1]。
- 天保13年(1842年)8月 - 鵜殿長発が自分手政治をする許可を受ける。同年10月、本浦住村を浦富村、町浦住村を町浦富村と改称する[1][3]。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 島根県の管轄となる。
- 1877年(明治10年)3月5日 - 町浦富村が浦富村に合併する。浦富村の一部が分村して田後村となる[4]。
- 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
- 1883年(明治16年)- 連合戸長役場を浦富村に設置[1]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行により、自治体としての浦富村(初代)が発足。大字は編成せず。牧谷村との組合役場を浦富村に設置[5]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、邑美郡・法美郡・岩井郡の区域をもって岩美郡が発足し、岩美郡浦富村となる。
- 1925年(大正14年)4月15日 - 牧谷村と合併し、改めて浦富村(2代、後の浦富町)が発足[6]。旧浦富村は浦富村大字浦富となる[3]。
行政
編集戸長
編集歴代組合村長
編集氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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山崎台次 | 1889年(明治22年)12月20日 | 1890年(明治23年)10月3日 | |
福光小治郎 | 1890年(明治23年)11月13日 | 1891年(明治24年)1月12日 | |
木山市衛 | 1891年(明治24年)1月28日 | 1892年(明治25年)4月15日 | |
沢田信五 | 1892年(明治25年)5月4日 | 1893年(明治26年)5月10日 | |
福光繁太郎 | 1893年(明治26年)5月17日 | 1893年(明治26年)5月19日 | |
福光小治郎 | 1893年(明治26年)6月1日 | 1894年(明治27年)11月13日 | |
木山市衛 | 1894年(明治27年)11月23日 | 1896年(明治29年)5月20日 | |
沢田十太郎 | 1896年(明治29年)5月27日 | 1899年(明治32年)8月14日 | |
永美正一 | 1899年(明治32年)9月12日 | 1900年(明治33年)12月18日 | |
広谷彦次郎 | 1900年(明治33年)12月28日 | 1904年(明治37年)12月27日 | |
滝清九郎 | 1905年(明治38年)1月11日 | 1905年(明治38年)12月15日 | |
松本常太郎 | 1906年(明治39年)3月5日 | 1908年(明治41年)1月9日 | |
中西清 | 1908年(明治41年)4月4日 | 1908年(明治41年)11月16日 | 鳥取市寺町 |
中崎正敏 | 1909年(明治42年)1月22日 | 1911年(明治44年)8月5日 | 京都府天田郡曽我井村 |
広谷彦次郎 | 1911年(明治44年)8月2日 | 1915年(大正4年)8月1日 | |
広谷彦次郎 | 1915年(大正4年)8月2日 | 1919年(大正8年)8月1日 | |
広谷彦次郎 | 1919年(大正8年)8月5日 | 1923年(大正12年)8月4日 | |
中島一三 | 1923年(大正12年)9月20日 | 1925年(大正14年)4月14日 | 引き続き浦富村長に就任 |
参考文献 - [1] |
教育
編集- 浦富尋常高等小学校(現在は統合により岩美町立岩美北小学校となる)
交通
編集鉄道
編集道路
編集港湾
編集- 浦富港
名所・旧跡
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 岩美町誌(岩美町教育委員会、1968年)
- ^ 郵便区画市町村一覧(1902年)、全国市町村便覧(1926年)、など
- ^ a b c d e 角川日本地名大辞典 鳥取県「浦富」「浦富村(近世)」「浦富村(近代)」
- ^ 鳥取県史 近代 第1巻 (総説篇)829頁(鳥取県、1969年)
- ^ 鳥取県町村合併誌104頁(鳥取県、1964年)
- ^ 「村廃置」『官報』1925年4月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 鳥取県職員録 明治22年9月調(鳥取県、1889年)
- ^ 府県管轄区域郡区町村名集覧(樋口文治郎、1888年)
- ^ 国指定文化財等データベース(文化庁)